2006年6月27日少子化対策・青少年育成調査特別委員会

子どもとともに札幌の未来を考える−子どもの権利条例の制定に向けて−最終答申書について

<1> P2の(2)検討委員会の取組みと条例制定の意義 を読むと、「条例の名称には「権利」という言葉を明確にするべきと提案します。」となっている。これは、私ら自民党が「権利」の2文字を削れと主張したことを受けて、それに抵抗しようとしての発言なのか? それとも、先日の第1回定例議会における共産党の主張を受けて、それに追従したものなのか?

<2> この最終答申書が正式に検討委員会の意見として決定されたのは、本年5月27日の委員会の会議の場においてであったと聞いているが、その決定にあたっては、25名の委員のうち5名が欠席していたと聞く。その5名の委員の欠席理由が何であったのかをお知らせいただきたい。私らの調査では、少なくとも、その5名のうちのひとりは、検討委員会の会議の進め方や、思想的な方向性に強い拒否反応を起こしてしまい、「会議に出席するのが嫌になったからだ」そうである。他の4名も同じではないかと思うのだが、いかがか?

<3> P20の3.豊かに育つ権利のAには、「遊び、疲れたら休むこと」となっている。しかし、子どもが権利を行使する際に「休む権利」というようなことを意識するとは考えられない。普通の子どもは、疲れたら休むものであり、今の日本社会に、それを認めない環境があるとは思われない。

また、P18の2.自分らしく生きる権利のAでは、「人と比較されることなく、自分のペースで生きること」という記述がある。他人と比較されずに生きるには、無人島にでも行って一人で暮らすしかないわけで、社会人として、「立派な人間になる」とか、「恥ずかしくない行動をとる」といったテーマにおいても、他人との比較がなくてはテーマとして成り立たない。

休む権利とか、他人と比較されない権利などは、本来子どもの権利として語られるものではなく、それらは、労働組合などが職場の待遇について争ったりする際のテーマではないかと思われるが、どうか? 

<4> 中間答申の「なぜ条例をつくらなければならないのか」というところには、「日本政府は子どもの権利条約に対する基本認識と姿勢において、きわめて消極的なのです。」という記述があった。今回の最終答申の前文にあたる「はじめに」では、条例制定にはなんの関係もない「格差社会」という言葉が使われ、ここでも日本政府を非難している。「権利」の2文字を入れる入れないの件を見ても、検討委員会には、反自民という政治的なスタンスが明確であるが、そういうスタンスで物事に対する公正な判断ができるとは思われない。この点についての子ども未来局の見解をお聞かせ願いたい。

<5> 検討委員会は、露骨に反自民の色を出している割には、我々が展開している議論に対しては、きちんとした答えを出していない。相変わらず、虐待・イジメをテーマにした文言が目立つが、それらの課題が条例制定で解決されるものでないことは、子ども未来局長も今年の予算特別委員会で認めたところである。この点について、検討委員会は、どういう見解をもっているのか?

ちなみに、P18の2.自分らしく生きる権利のDには「プライバシーが守られること」という項目が見られるが、虐待・イジメについての調査を行うには、プライバシーの問題が最大の障壁である。虐待をしている親などは、外部の人間にはそのことをひた隠しに隠しているし、いじめられてる子どもは、その事実を親や先生にひた隠しに隠しているものである。そこにプライバシーの尊重などと言い出せば、虐待やイジメを発見することが非常に難しくなる。そのことを検討委員会では、どのように考えているのか?

<6> P3のA権利と保護の関係のところでは、「子どもに寄り添い、支援しながら、子どもとともに色々な問題を考える」という表現がある。P18の2.自分らしく生きる権利のAでは、「ありのままに自分らしく生きる」ことを権利として尊重しなくてはならないようなことが書かれてある。が、子どもには、シツケが必要である。子どもに寄り添い、「ありのままでいいよ」などと言っていたらシツケなどはできない。そのことをどう考えているのか?

<7> 子どもオンブズパーソンの制度化が謳われているが、これとよく似たコンセプトの制度がかつてあった。「心の教室」とか「スクールカウンセラー」の制度である。結局、子どもたちは、親や担任の先生にも相談できない事を赤の他人の見知らぬおじさんには相談せず、心の教室もスクールカウンセラーも、ほとんど役に立たなかったのだが、この点について、どう考えているか?