2006年1定予算特別委員会質問原稿(子どもの権利条例について)

 私からは、子どもの権利条例について6点お伺いします。

 今回の我が会派の鈴木議員の代表質問におきましての答弁で、不明瞭な部分がありましたので、再度、この場でお伺いします。

 質問は、本市において、虐待などで生存権が侵されている子どもは何人いるのか? それらのこどもたちは、条例があれば救済できるのか? 条例がなければ救済できないのか? というものでした。これに対する答弁は、「どのような事実が生存権の侵害にあたるのか判断できない」とし、虐待が242件、イジメが296件とし、「権利侵害からの救済については、子どもの権利条例検討委員会の中間答申で、条例の制定目的のひとつとして挙げており、今後、条例に盛り込まれることで救済がより一層図られる」となっていました。

 まず、わからないのは、条例を制定しようというのに、その核心部にあたる生存権侵害の定義ができない、ということです。「こういう事実が生存権の侵害なんだ」という定義ができなくて、それを防止するための条例をどうして制定できるのか、まず、お伺いします。

 2点目の質問としては、その条例で虐待などを受けている子どもをホントに救済できるのか?という質問に対する答弁についてお伺いします。「権利侵害からの救済については、子どもの権利条例検討委員会の中間答申で、条例の制定目的のひとつとして挙げており、今後、条例に盛り込まれることで救済がより一層図られる」ということですが、条例制定の目的に盛り込まれてあるから、救済がより一層図られる、とは、どういうことでしょうか? なにか問題があって、それを解決する目的の条例を制定すれば、かならず、問題は解決されるのでしょうか? そんなバカなことはないわけで、だからこそ質問しているわけです。条例制定から虐待やいじめ問題の解消に到る具体的なプロセスというか、スキームというか、そちらの思い描いていることを説明していただきたい。

 それから、その条例がなければ、イジメや虐待を受けている子どもを救済できないのか? という質問に対する答弁を出してもらいたい。代表質問においては、これに対する答弁がありませんでしたので、再度お伺いします。

(再質問)

 なんだか、ほとんどこちらの質問には答えてませんね。権利侵害については、やはり、これといった定義ができない、ということですね。漠然と風呂敷を広げて、なんでも包み込もう、ということなんでしょうが、要するに、これをやらなければ大変だ、というような目的意識がうすい、ということかと思われます。虐待やイジメの救済に至るプロセスについても、オンブズパーソン制度なんかのことを言ってましたが、そんなものは、子ども権利条例がなくてもやれるわけです。

条例がなければ救済できないのか? という点についての答弁も、条例をつくれば一層の救済が図られる、というばかりで、ほとんどこれは、答弁になってない感じがします。要するに、条例ありきで、その後にいろんなものをそこに放り込もうということかと理解します。

 それでは、もう3点おうかがいします。

 1点目の質問としては、「権利の主体」という表現についてお伺いします。「子どもを「保護の対象」として捉えるばかりでなく、「権利の主体」として捉え、育てていかなければなりません。」という表現が市長の答弁にありました。これは、国連で子どもの権利条約を審議した際に盛んに使われた表現だそうで、子どもには権利があり、その権利を子ども自身が行使することで、その子どもが成長する、という考え方があるようです。しかし、これは、子どもの権利が踏みにじられているような発展途上国や紛争地域を想定しての話なのではないでしょうか? 幼いうちから学校にも行かせてもらえずに家業を手伝わされていたり、兵士として戦場に出されたり、というような状況を想定しているものと思われます。だとすると、札幌市の子どもを想定した条例づくりには、ふさわしくない表現だと思われます。

 札幌市の子どもには、権利もありますが、義務もあります。将来における期待もありますし、道を踏み外す心配もあります。それら諸々の状況がある中で、権利の主体という部分だけをことさらに取り沙汰するのは可笑しいと思うわけですが、いかがかお伺いします。

 ちなみに、市長は、「市民みんなが子どもの権利を大切にするという意識をはぐくんでいかねばならない」ようなことも言っておられましたが、それでは、本市の市民は、子どもの権利を大切にしていないのでしょうか? 虐待やイジメがあることはわかりますが、市民の皆さんのほとんどは、そのことについて問題意識をもっていますし、「子どもには権利などない」などと考えている市民は、まず、いないだろうと思うのですが、この点についてもご見解をおうかがいします。

 前にも申し述べましたが、今、学校教育においても、家庭内教育においても、もっとも問題となっているのは、子どもたちのシツケができていないことであります。学級崩壊にまでは到らずとも、生徒・児童が教員の指示にしたがわず、授業が予定通りに進められない、というような状況は、珍しくありません。「他人を敬う心」とか「他人を思いやる心」などを教えることがシツケの基本なわけですが、ここの部分ができていない子どもがあまりにも多すぎることで、学校や家庭の教育現場に多くの問題が発生しています。そして、このシツケをきちんと行うことと、子どもの権利を尊重することとは、教育の現場においては、なかなか両立しにくいのではないかと思われます。傍若無人に暴れ回るような子どもを相手にシツケを行おうとしている者に対して、その横から子どもの権利などの話を説いて聞かせることが、本当に得策なんでしょうか? 確かに、そこには、シツケという名の下に虐待を行う保護者もあります。が、その手の保護者に対しては厳しい制裁措置や、親身になって話を聴いてくれる相談相手こそが必要なのであり、条例などで対処するのが的を得たことなのかどうか、判断に苦しみます。

 しかも、今の日本では、虐待などを行う保護者よりも、もっと大きな問題を抱えた保護者が目立っております。それは、子どもを甘やかすだけ甘やかし、子どもの言いなりみたいになって事の善悪も見境がつかなくなっているような保護者であります。そういう保護者は、我が子可愛さに目がくらんで、社会通念上通るはずもないような主張を周囲に押しつけたりしているわけで、この手の保護者がたまさか指導力不足教員とぶつかったりしまと、教育委員会を巻き込んでの大騒ぎが起こったりいたします。そのような保護者に「子どもの権利」などという話を吹き込むと、その権利を盾にとって何を言い出すかわからないわけです。「学校給食にマクドナルドを出せ」などという筋違いの話をする親が続出することが予想されます。

 したがいまして、我が会派としましては、子どものための条例をつくるのは「良し」とするとしても、「権利」という言葉は不要であろうと思います。権利というのは、非常に強い言葉でありまして、拳を握って立ち上がり、邪魔な相手を糾弾するときに使う言葉であります。弱い立場に追いやられて生存権を侵されているような子どもを救済する、というのであれば、「子ども保護条例」というような名称で十分だと思うわけですが、この条例の名称に「権利」という言葉が必要なのかどうか、必要だとするなら、どういう理由で必要なのか、「権利の主体」などという国連での話ではなく、札幌市の現状に則した事例をもって説明していただきたいと思います。

(コメント)

 「権利の主体」という表現を使うことが子どもたちの成長・発達にとって適切だ、ということでしたが、どうも説得力がありませんね。もうちょっと理論武装をやってもらわないと、賛成したくても賛成できなくなります。

 子どもの権利が市民に浸透していないのか?という質問に対する答弁も、参加する権利については、あまり意識されていない、ということでしたが、そうかなあ・・・と思います。

 あと、名称に「権利」という言葉を使うべきかどうかについても、「参加の権利」の行使が自立した社会性のある大人への道だというようなことを言っておられましたが、一般論としては、今の子どもは、権利ばかり主張して義務を果たない、なんてことも言われております。問題は、権利の行使ができるかどうかではなく、義務の自覚の方ではないかと思われます。

 この条例につきましては、我が会派としては、賛成しかねるように思いますが、こ

の点については、まだ、決定されてませんので、今日は、これくらいにしておきます。