天皇ってなんだろう?

この度、雅子さまが愛子さんを出産されたことで、色々なことが頭の中に浮かんできた。

愛子さんが天皇になることは一向にかまわないと思う。
だが、そのための法整備に連動して皇室の予算が膨れあがるのは問題であろう。
その辺をうまく解決できるなら、女性の天皇でもかまわないだろう。
しかし、皇太子が女性でも、やはり皇太子って呼ばれるのだろうか?
その女性の皇太子に婿(むこ)が来るだろうか?
今の日本に、そんな大役を引き受ける度胸の据わった男がいるだろうか?
仮にいたとして、その婿さんは、何と呼ばれるのだろうか?
雅子さまは、皇太子妃(ひ)殿下だが、これが男なら、皇太子夫(ふ)殿下になるのだろうか?
そして、その奥さんが天皇になったとして、旦那は、何と呼ばれるのだろう?
大辞林では、皇后は天皇の妃(きさき)となっている。男でも妃と呼ばれるようになるのだろうか?

そんなことを考えているうちに、若かりし頃に書きつづった『大空理説』の第2稿が思い起こされ、古びた縮小コピーの原稿をめくってみた。神武天皇に関する記述を読み返すと、忘れ去ってしまっていた様々な空理空論が復活してきて、う〜む、と唸ってしまう。以下は、その頃に思い描いた個人的な見解である。

神武天皇は、天皇家の創始者とされている。だが、その人は、日本人ではなかったし、日本に来たこともなかった。その本名は、アレクサンドロス大王という。この論拠は、『古事記』の神武東征に係わる一節にある。
いわゆる日本神話というのは、古事記などの古文書に記されている神代史のことである。その古事記の神代史というのは、出雲国の出雲大社に伝わっていた伝説や、南九州出身の隼人族の民間伝承などをゴチャ混ぜにして一本のストーリーを組み立て、唐の『進五経正義表』や『進律疏議表』などの字句を典拠として編纂されたものである。が、ところどころに、エジプト神話やシュメール文明以降の西アジアの歴史を取り入れた部分がある。おそらく、秦氏(応神天皇の時代に朝鮮半島から渡って来て日本に大陸の先進文明を伝えた人々)などが、かなり古い文献などを携えて来ていて、古事記には、それらの知識も組み込まれたのではないかと思われる。
その古事記では、現在のメソポタミア地方のことを、葦原中国(アシハラノナカツクニ)と記している。アジア、アフリカ、ヨーロッパの中間地域で、アッシリア(Assyria 紀元前3千年紀後半〜前610年)という国が長くその地を支配下に置いていたために、そういう呼称ができあがったのではないかと思われるが、実際に、その地は、メソポタミア文明の絶頂期には、葦(アシ)の原であった。
その葦原中国にアッカド王国(Akkad 前2350年〜)という世界最古の大帝国を築いた者がいた。その者は、サルゴン大王(Sharru-kin)と呼ばれていたのだが、古事記では、そのサルゴンのことを猿田毘古神(サルダビコノカミ)と記している。この猿田毘古神は、日子番能邇邇芸御命(ヒコホノニニギノミコト)が天降りしてくる際に、その道の辻でこれを出迎えて、その先導役を務めるのだが、そのヒコホノニニギノミコトというのは、サルゴン大王の後に南メソポタミア諸国の盟主となったラガシュ国(Lagash 前2500年ごろに創始され、前2150年頃に絶頂期を迎える)のことであると思われる。と、言うのは、そのラガシュ国の守護神がニンギルスという名前であり、ニンギルス→握る→ニニギ→日子番能邇邇芸御命、という音韻の変遷があるように思われるからである。ラガシュ国が絶頂期を迎えたときの王は、グデアという名であった。そして、その彫像は両手を胸の前で組んだ形、つまり、握った形になっており、これは一つではなく、南メソポタミアのあちこちから同じ形のものが発掘されている。ニンギルスがニニギになったのは、そのあたりのことにも起因しているかもしれない。
また、エーゲ海方面に発生したミケーネ文明圏(Mycenae 前17世紀末に台頭)は、古事記では、御毛沼命(ミケヌノミコト)と記されている。この御毛沼命には、若御毛沼命(ワカミケヌ)という弟があり、そのまたの名が神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)という。つまり神武天皇である。ミケーネ文明を継承したマケドニア王国において、若干20歳で即位し、ギリシア方面から西アジア一帯を一代で制覇したアレクサンドロス大王(Alexandros 前356〜前323)こそ、その若ミケヌであろう。古事記では、その若御毛沼命より前の話を神代史とし、若御毛沼命以後を人間の歴史としている。
ちなみに、古事記では、その神武東征記を書くにあたり、地中海を瀬戸内海に置き換えてストーリーを展開している。アフリカ大陸を九州に置き換え、アナトリアから西アジアを中国地方に置き換え、アラビア半島が紀伊半島になり、カスピ海が琵琶湖になってしまう。この場合、四国をどこに当てはめるのかわからないが、神武東征記には、四国の話はない。


神武天皇は、同母の兄の五瀬命(イツセノミコト)とともに日向を出発し、まず、北九州に入る。アレクサンドロス大王は、アナトリアのイッソス(地名)でアケメネス朝ペルシアのダレイオス3世を破り(有名なイッソスの戦い)、そのままエジプトに入る。五瀬の命のイツセとは、イッソスのことであろう。古事記の編纂者は、イッソスが地名であるとは知らず、人名であると誤解したものと思われる。北アフリカのエジプトは、北九州になってしまっている。
神武天皇が北九州に入ると、その地の住民はこれを歓迎する。エジプト勢は、アレクサンドロス以下のマケドニア・ギリシア同盟軍をペルシア帝国からの解放軍として受け入れる。アレクサンドロス大王は、ここで民心をつかみ、ファラオ(エジプト王)に即位し、「太陽神アモンの子」と呼ばれる。五瀬命は、日の神の御子である。
神武天皇は、中国地方を渡り歩き、速吸門(潮流の速い海峡)で亀の甲に乗った人物に出会う。アレクサンドロス大王は、エジプトを出発してメソポタミアに入り、チグリス川を渡ったところで、再度ペルシア軍と会戦する。この会戦は、ガウガメラの戦いと呼ばれている。亀の甲に乗った者と出会うという表現は、ガウガメラという地名から来ているのであろう。ここでも、地名を人物名と混同している。
神武天皇と五瀬命は、さらに東征を続け、浪速ノ渡を経て白肩ノ津(東大阪市)に船を停めた。このとき、登美(奈良市)のナガスネビコが軍勢を興した。五瀬命は、これと戦い、その御手にトミビコの矢を受ける。アレクサンドロス大王は、バビロンを経てスサ(アケメネス朝ペルシアの古都)を占領し、さらに東征を続けたが、インダス川を渡ったあたり(今のパキスタン)で味方の士卒の反発を受け、やむなく東征を打ち切る。そして、インダス川を下りはじめたときに、マルロイという原住民と戦い、胸部に矢を受ける。御手に矢を受けた五瀬命は、「日に向かって(東に向かって)戦うことが良くなかった。今より行き廻りて、背に日を負いて(西向きで)討たむ」と誓いを立てて南下する。南下中に胸部に矢を受けたアレクサンドロスは、行き廻りて、背に日を負いて、スサに戻り、西方のカルタゴを討つべく新たな大計画に着手する。
五瀬命は、敵矢を受けたのが原因で、男之水門(紀伊国)に至って落命するが、アレクサンドロスは敵矢を受けても死ななかった。が、傷が回復した直後にマラリアにかかり、バビロンで落命する。
トルキスタン東南部あたりでは、アレクサンドロスのことを、イスケンデルと訛って呼ぶ。その地には、今日に至っても、そのイスケンデルの子孫を名乗る者があり、そのイスケンデルの墓もあるらしい。神武天皇の妻は、イスケヨリヒメという。イスケンデルに寄り添う姫だから、イスケヨリヒメということになったのではないかと思われる。
ちなみに、アレクサンドロスは遊牧騎馬民族の貴族の娘など多数の妻を娶ったが、ダレイオス3世の娘をも妻とし、ペルシア大王にも即位している。
日本には、「中入り」という戦術がある。主力軍をもって敵の前面に対応し、かつ、同時に少数の遊撃隊を密かに走らせ、敵の側背を突かせるものである。源義経がやった「鵯越えの坂落し」が、その典型的な形であり、日露戦争においても盛んに用いられた兵法である。しかし、これは、中国の『虎の巻』や『孫子』などにはない兵法である。この戦術を編み出したのは、アレクサンドロス大王の父であった。アレクサンドロスは、その戦法でペルシャ軍を破ったのである。

ここで思い起こされるのは、騎馬民族王朝渡来説である。
イスケンデルの末裔を名乗るトルキスタン系の騎馬民族王朝が流れ流れて日本にやって来て大和朝廷を興した、という説も成り立つかもしれない。確かに日本語は、ウラル・アルタイ語族のうちのアルタイ語に属し、トルコ語ともっとも近い親戚にあたる。が、文字も持たない遊牧騎馬民族がサルゴン大王のことや、ラガシュ国のことまで記憶していたというのには無理があろう。
日本の天皇家は、輸入した資料などを使って、その王朝史を粉飾したのだと考える方が現実味がある。古事記の原本は、聖徳太子と蘇我馬子が書いた『天皇記・国記』であるとされている。その聖徳太子は斑鳩(いかるが)の里に住み、秦氏と深い関係にあったようだ。では、その秦氏がメソポタミア文明からイスケンデルに至る西アジア史をどうして知っていたのか?
おそらく、秦氏と呼ばれた人たちは、鳩摩羅什(Kumarajiva344〜413)の門弟たちであったのだろう。
この鳩摩羅什は、中央アジア方面のオアシス国家である亀茲国(クチャ国)の王の妹の子で、母とともにインドに留学して学僧となり、その名声は中国にまで及んだ。当時の中国は、五胡十六国時代と呼ばれる大混乱期で、遊牧騎馬民族が大量に流入してきて、次から次ぎへと新しい王朝を興していた。その中の一つである前秦の王の苻堅(ふけん)は382年(建元18)クチャ国を攻略して鳩摩羅什をとりこにした。鳩摩羅什は、十数年間涼州(りようしゆう)(甘粛(かんしゆく)省)に滞在したのち、401年(弘始3)後秦の都長安に迎えられた。後秦王姚興(ちようこう)は国師として鳩摩羅什を迎え、西明閣および逍遙(しようよう)園で訳経に従事させた。長安における彼の訳経と講説は中国仏教を大乗仏教に方向づけるうえで決定的な役割を果たした。その門弟は3千人と称されたが、その3千人の中には仏教を専門としない者もあった。国費で保護された一門の名声を聞いて、あらゆる学問の徒が世界中から集まっていたのである。西アジア史に関する資料なども、ここに集積されていただろう。
このとき、日本は、朝鮮半島における百済国の覇権を高句麗の公開土王と争い、激戦をくり返していたが、公開土王が没すると、高句麗とともに晋に貢物を送ったりもしている。そして、その朝貢の年は413年で、同年、鳩摩羅什も死んだことになっている。もしかすると、このとき、鳩摩羅什の門下生の一部が、なんらかの理由で、日本の使節と一緒に日本に渡来してきたかもしれない。鳩摩羅什を保護していたのは、後秦である。彼等は、自ら、秦氏を名乗って日本に来たのではないだろうか?
古事記の応神天皇記には、有名な王仁(わに)の話が記されている。
朝廷が「百済国にもし賢人(さかしきひと)があったら、是非たてまつれ」と百済王の照古王に命じたので、百済は、和邇(わに=王仁)吉師に論語10巻、千字文1巻、あわせて11巻を持たせてたてまつった。これらが文首(ふみのおびと)らの祖である。
というのが、その応神天皇記の一節である。当時の日本では、大陸の先進文明を取り入れることに熱心で、それを取り入れることが権力の象徴にもなっていた。鳩摩羅什の門弟や、あるいは鳩摩羅什自身も、その朝廷の誘いに乗って日本にやって来た可能性がある。

大和朝廷が邪馬台国の系譜を継ぐものだったのかどうかは、いまだによくわかっていない。仮にそうだったとして、その起源は何であったろう? 縄文時代から引き継がれた氏族のようなものだったのかもしれないし、弥生時代にできあがった新興勢力だったかもしれない。いずれにしても、マクロ的に見れば大したものではなかったはずだが、4世紀から5世紀にかけて日本列島に君臨するようになり、今となっては、現存する世界最古の王朝である。その台頭の背景にあったものは、宗教的なものではなく、武力であった。五胡十六国時代の中国における混乱期を警戒し、朝鮮半島への進出を大義名分として、列島をひとつにまとめたのである。アレクサンドロス大王を創始者として祭っていることは、その当時の政権のあり方を反映したものと思われる。天皇というのは、本来、武をもって国を治める者であろう。ただし、和をもって尊しとする一面ももっている。アレクサンドロス大王は、ギリシア人とアジア人との集団結婚式をやらせたりして、互いの融和を図った。和をもって、その大帝国を治めようとしたようだ。ただし、その政治的な融和政策は、完全に失敗している。アレクサンドロスの帝国は、その死後、空中分解してしまう。
日本の天皇家は、アレクサンドロスのエピソードを借りて、1500年間以上もの長期に渡って日本列島に君臨し続けている。対照的で面白い。

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