私の山アルバム1




 

札幌岳(10月13日)

 私は、もともとアウトドアスポーツを好みませんでした。子供の頃は、よくカエルやサンショウウオやザリカニなどの採集に行きましたし、三角山に蛇を探しに行ったりしてましたが、これはアウトドアが楽しいというよりも、獲物をつかまえたかっただけのことでした。中学生のときは、バレー部に所属し、高校時代は空手を習ってましたが、どちらもインドアのスポーツです。走り高跳びが得意でしたが、これもインドアでやったときの方が良い成績を出せました。
 ところが、昨年夏、アウトドアマニアの同級生に『神々の山嶺』(夢枕獏)という山岳小説を紹介されまして、これがあまりにも面白かったため、読み終わるとすぐに同期同僚議員の横山さん(写真の手前右から2番目)を呼び出し、小説の内容を涙ながらに語りました。すると横山さんも涙ぐむほど興奮し、それからしばらくは、その小説の話ばかりしてました。しかし、この時点では、自分が山に登るなんてことは、さらさら考えてませんでした。
 そんなある日、山登りやカヌーなんかも趣味にしている石倉さん(写真の奥左端)と横山さんと中島さん(写真なし)と4人で酒を飲んでいて、『神々の山嶺』の話になり、石倉さんがその本を読んでいたことで大いに盛り上がり、さらには、「実は、来週、札幌岳に登るんだ」と石倉さんが言うのを聞いた横山さんが、
 「俺も連れてってくれ!」
 と酔っぱらった勢いで言い出しました。私としては「その腹で登れるわけがない」(横山さんのお腹はすごく太い)と笑ってすますつもりだったのですが、結局、行くはめになりました。
 当日、朝7:30に地下鉄真駒内駅に集合したときの横山さんは、やはり不安だったのか、「俺にも登れるかな?」としきりに漏らしてました。それに対して石倉さんは「女の人も登ってるンだから大丈夫だろう」と笑ってました。ちなみに、上の写真のメンバーは、石倉さんを中心にした「トッポの会」という山登りの会のみなさんです。
 登攀開始後、はじめのうちは、横山さんもいつも通り冗談ばかり言ってましたが、だんだんと無口になり、やがて、見ていて気の毒になるほど体力を使い果たしました。途中の冷水小屋のドアが開いていたら、そこで皆の帰りを待つつもりになっていたようですが、運悪くと言うか、幸運にもと言うか、その冷水小屋には鍵がかかってました。横山さんは、やむなく、もっとも厳しい部分の登攀にかかりました。はじめは、横山さんをからかっていた私も、次第に何も言えなくなり、「もうちょっとだよ」などと励まさざるを得なくなりました。その様子を見かねた石倉さんは、自分のザックの他に横山さんのザックも背負いました。横山さんの脱いだ合羽は、石倉さんの奥さんが預かりました。そして、半死半生で、ついに登頂を果たしたときの横山さんの喜びようは表現しがたいものでした。

 私が山歩きのまねごとをするようになったのは、以上の経緯によるものです。


「冷水小屋に鍵がかかってるのを見たときは、もう、絶望的な気分だった」
(横山氏談)
 
「考えてみると、札幌岳は、学生のとき以来のぼったことがなかった、これは、初心者向けじゃなかったね」
(石倉氏談)



 

藻岩山(10月28日)

 山頂のレストランで、ジンギスカン定食を食べてると、ばったりと本郷市議(同期)にお会いしました。本郷さんは、慈恵会病院のすぐ近くに住んでいて、しょっちゅう藻岩山に登ってるそうです。藻岩山は、さすがにラクラクで、横山さんの笑顔にも余裕があります。



 

藻岩山(11月9日)

この日は、西高の2期後輩の田岡さんも一緒に来ました。田岡さんは、経営コンサルタントを本業にしてますが、サルサとコンピューターの達人で、見識も深く、もっとも親しくしている友人のひとりです。一緒にパキスタンに行ったこともあります。



 



  この手稲山登頂は、12月に入ってからでした。横山さんと山に登ったのは、これが最後です。これ以後は、単独登攀しかやらなくなりました。



 

八剣山(12月22日)

 この八剣山は小さい山で、時間的にも、体力的にも、ラクラクでした。が、尾根に出た途端、ドデカイ建築物の屋根の上に上がったような気分になり、思わず足がすくみました。度胸だめしの意味では、登りがいのある山です。





 

キロロスキー場(2002年1月5日)

 山スキーを買いまして、試しにキロロで滑ってみました。登山靴で滑ると、足首が固定されてないので、転倒の連続でした。





 

札幌岳(2002年1月28日)

 冬期に入ってからの札幌岳(標高1290メートル)への挑戦は、これで3度目でした。過去2回は、雪の具合や、装備の不備などでいづれも敗退しており、「今度こそ!」と思って、朝6:30に起きたのですが、自宅を出たのは8:15になってしまいました。出発までにかなり時間がかかったのは、べつに迷っていたのではありません。連日連夜の新年会で疲労がたまり、動けなかったのです。それで、石山通りから豊平峡ダム方面に抜けて、登攀にかかったのは、9:10でした。
 天気予報では、午後3:00以降は雪になるとなってましたので、できれば1:00には登頂を果たしたいと思いましたが、思ったようにはいきませんでした。今回は、すでに先客があり、スキーの跡がついており、雪もかなりしまっていたのでうまく登れましたが、やはり、急峻な尾根のところでは大いに手こずり、著しく体力を消耗し、最も厳しいところではスキーを脱いで、崖登りの要領で登りました。頂上近くになると吹雪いてきて、かなりやばい感じでしたが、それでも、3度目の正直で、午後2:45、札幌岳の冬期単独登頂に成功いたしました。
 結局、3:00近くになってしまい、かなり焦りましたが、ラッキーなことに、登頂した頃から吹雪きも止み、霧も晴れて、無事に帰ることができました。予報どおりの天気だったら遭難する危険が大でした。
 とにかく、下りでは、もうヘトヘトというより、ヘロヘロになっており、まいりました。登山靴にスキーを履いていたものですから、下りになるとスキーを制御できずに転倒してばかりいました。(やはり、スキーで滑るときには、スキー用の登山靴を履かないとダメです。歩行用の登山靴だと足首が固定されてないので、靴の中で足が遊び、エッジが全然効かないのです。ゲレンデで滑っても、初心者コースですら転倒の連続になってしまいます。)それで、ついには、スキーを脱いで、流れ止めのヒモをつかんで、スキーとストックをひきづって下山しました。
 車に着いたのは5:20で、もう真っ暗でした。
 とにかく、えらく疲れました。昼食は紅茶を1リットル飲んで、東鳩オールレーズンを食べただけだったもので、腹がへりすぎて胃が痛くなり、帰宅してもすぐには食事ができず、胃薬と梅干しでとりあえず腹を満たし、深夜になってから牛丼をつくって食べました。



 

朝里岳(2月24日)

 札幌岳の次は余市岳(標高1488メートル)と決めてましたが、なかなか都合がつかず、都合がついても天気が悪かったりして、とうとう2月中最後の日曜日になってしまいました。
 朝6:30に起きて、窓の外を見たら大雪でした。それでも、もしかすると止むかも、と思い、支度をして天気予報を見たら、午後から晴れるとなっていたので、午前9:30頃に自宅を出ました。ガソリンが入ってなくて、不安に思いながら、なんとか国際スキー場までたどり着いたのですが、下は晴れてるのに上は雪でした。それで、だめだこりゃ、と思い、朝里まで降りたのですが、ガソリンを入れてウロウロしてると、上の方もかなり晴れてきまして、それで、再度、国際スキー場に入り、ゴンドラで上まで上がって、登攀を開始しました(午後12:00)。 
 ところが、1時間ほど登ったところで(朝里岳の山頂付近・標高1200メートル)突風性のかなり厳しい風に吹かれはじめ、前方がまったく見えない状態に陥ったりして、結局あきらめました。上の写真は、その朝里岳の山頂手前から石狩湾を写したものです。
 下りは、ゲレンデを滑って降りたのですが、背中のザックが重くて、なにせ、寝袋(1キロ弱)からスコップからバーナー、ツェルトの類まで詰め込んでましたから、10キロ前後くらいでしょうか、それで、シールを剥がすのがためらわれ(シールを剥がすと普通のスキーになってしまうのでスピードが出過ぎてしまうのではないかと不安でした。ザックを担いでなければ平気ですが、ザックを担いでると前屈みの姿勢になり、バランスが取りにくくなります。)、それで、シールを貼ったまま降りたのですが、足にきてるし、自分だけ変なカッコウでトロトロ滑っていて、なんとなく恥ずかしくて、やたら疲れました。新しいスキー用の登山ブーツのおかげで転倒することはありませんでしたけど






 

朝里岳頂上(3月3日)

 この日は、中学・高校と同期で、一緒に陸上をやっていた芳川くん(左の写真では黄色いジャケットを着ている)と一緒にスノーシューで登りました。私に『神々の山嶺』を薦めてくれたのは、この芳川くんです。ちなみに、芳川くんは夏山はかなりやっていて、台風の中で道に迷い、夏だというのに吹雪に遭い、雷の鳴り響く状態で決死のビヴァークをやったこともあるそうです。1500メートルを得意としていて(数年前まで)、中学・高校のときには全国大会にも出場しました。心肺機能はずばぬけています。
 上の写真を撮影したのは、午前10:10 頃でした。風邪が冷たくて、私はゴーグルと目だし帽をかぶってましたが(赤いジャケットを着ているのが私)、この頃までは元気でした。が、この後、かなりの吹雪が続き、通称で飛行場と呼ばれる真っ平らな場所を抜けるのには、地図と磁石が必要不可欠でした。
 それでも、なんとか余市岳にまではたどり着いたのですが、吹雪の中におぼろげに山肌が見えて来たときには、そのあまりの不気味さに帰りたくなりました。が、しばらくすると晴れてきて、山裾に現れたスノーボーダー3名を確認してからは、一気に登攀気分が盛り上がりました。ところが、芳川くんは、かなり重いザックを背負っていたことで疲労が限界に来ていて、その上、その、のっぺらぼうで、急峻で、アイスバーン状になっている山肌を登ることに難色を示しました。
 「ここは無理だよ、一旦滑りだすと、どこまで行っても止まらないぞ、アイゼンとピッケルがなきゃだめだ」
 と、言うのです。やがて、言った本人の芳川くんがズルリと滑って立ち上がれなくなりました。私は、なんの危機感もなくパタパタとスノーシューを駆って一気に登り詰めようとしていたのですが、その様子を見て、引き返すことにしました。私としては、アイゼンもピッケルも用意してたので、そのまま一気に登ってしまいたい気分でしたが、そういうわけにも行かないと思い、あきらめました。
 が、これが正解でした。引き返しはじめて間もなく、強い地吹雪が舞い上がりはじめ、あたりの景色がまったく見えないホワイトアウト状態になったのです。磁石と地図と勘だけを頼りに来た道を戻りましたが、ゴーグルに雪飛沫が凍りついて足もとの凹凸も確認できなくなり、ゴーグルをはずすと、今度はめがねが凍り付いて、とにかく、顔や手足が凍る寸前の状況に陥り、転倒をくり返しながらジグザグに進んで、真っ平らな飛行場を抜け出すのに3時間もかかってしまいました。それでもその場を凌げたのは、芳川くんのサポートがあったればこそでした。余市岳に登頂していたら、その後は、斜面で滑落するか、どこかに穴を掘っビヴァークするしかありませんでした。まあ、バーナーもスコップも寝袋も持って行ってましたから、死ぬことはなかったかもしれませんが、それでも、「市会議員が余市岳で遭難」という新聞記事が出ていたかもしれません。
 とにかく、疲れました。朝9:20に登攀を開始して、札幌国際スキー場の駐車場にたどり着いたのは、5:30を過ぎてました。
 途中、スキー場のリフトに乗って下山しようと思い(スキーではないので、下山も大変なのです)、係りの人に尋ねてみましたが、
 「それは禁止されてます」
 と、とりつく島もなく、2人して大いに憤慨しましたが、そこで喧嘩をおっぱじめる元気も残ってませんでした。
 膝の痛みを堪えながら、ゲレンデのど真ん中をスキー客やスノーボーダーの背中を見ながらとぼとぼと歩いたことは、一生忘れられないでしょう。


下山後、二人でとんかつ屋さんに入って、ビールを飲みました。



 

自室(2002年3月6日)

 山から帰った夜、鼻の頭の上の方からツユが出るので変だなと思っていたのですが、翌日になると右のほおに真っ黒いシミのようなものができていて、鼻全体が赤くなってました。それで、宮村先生(元看護婦の市議)の助言にしたがって、マックスファクターPKというバカ高い化粧水を脱脂綿にしもわして、それを貼り付けたまま寝ましたら、その翌朝になって1.5センチ×0.5センチほどの面積の皮が剥けていました。オレンジ色のようなピンク色のような地金が露出していて、皮膚科に行きましたら、2度の火傷(凍傷)だと診断されました。今(3月6日)は、その皮の剥けたところの面積が3倍近くになってます。この顔では、しばらくポスター用の写真撮影はできません。今日、公明党の議員控室にこの顔を出しましたら、
 「ミル・マスカラスが入って来たのかと思った」
 と大笑いされました。(マスカラスとは古い!)
 今議会中は、ずっと、このカットバンだらけの顔で質問をやらなくてはなりません。患部の皮膚を紫外線に当てると、そこが真っ黒く変色してしまうからです。
 ちなみに、一緒に山に入った芳川くんは、手足の指に凍傷によるしびれがしばらく残ったようで、手袋とジャケットの間から露出していた手首の一部も火傷のようになってるそうです。飛行場では、風が強くて、確かに冷たいと感じてましたが、まさか、こんなことになるほどとは思いも寄りませんでした。やはり紙一重だったのかなと思うと、なんとなくニヤついてしまいます。


 3月31日、ついに、単独で余市岳をやっつけてきました。
 今回は、登頂よりも、写真撮影を目的としていたため、なるべく汗をかかないようにしながら(ヘアースタイルを保つため)、キロロスキー場から登りました。
 ちなみに、カメラは、NIKONの500万画素のやつを新たに買い、三脚(2キログラム)も持って登りました。

 山頂からは、天狗岳、札幌岳、空沼岳の他に羊蹄山も見え、猛吹雪のときの飛行場との落差に拍子抜けしました。とにかく、登りの楽だったこと、まったく違う山のようでした。
 が、下山が大変でした。
 スキー用のブーツが足に馴染んでなかったせいか、右足の弁慶の泣き所にひどい靴擦れが発生し、あまりの痛みに目の前が暗くなるような感じでした。とにかく、スネの骨に直接何かが食い込むような感じになって、一歩踏み込む度に激痛が走るのです。
 それで、10歩ごとに一休みしながら、ノロノロと下山してましたら、ゴンドラの終了時間に間に合わなくなり、やむなくゲレンデを降りたのですが、スキーのシールを剥がして貼り付けるビニールを自宅に忘れてきたたもので、シールを貼ったままの下山となりまして、滑走するよりも歩くほうが多くなり、地獄の責め苦を味わいました。

 歩きながら頭に浮かんだのは、芳野満彦という登山家を題材にした新田次郎の小説でした。中学生のときに友人と山に登って凍傷で両足のつま先と踵を失い、それでも、足のない登山家となり、最後にはマッターホルンの北壁をやるのですが、ガチガチに凍り付いた岩壁にアイゼンを蹴込んでいるうちに、つま先のない足が痛み出し、激痛に耐えつつ、靴の中を血だらけにしながら、ついに登頂を果たす話です。

 そのとき、その山頂には、多数の見物客がいて、登頂を果たした主人公を喝采で迎え入れるのですが、しかし、私のやったのは、そういうカッコウのいいものではありません。
 人っ子ひとりいなくなったゲレンデを降りはじめると、後からスノーモビルが後をつけて来ました。なんで追い越していかないのかと思ってましたら、スキー場のパトロール隊みたいな人が私の下山を確認しにきていたのでした。しかし、あまりにノロノロと降りるので、うんざりしたのか、途中からどこかに消えてしまいました。
 そのうちに、変なコースを降りてしまい、一度降りたところをリフトに乗って再度登るはめに陥り、リフトの係員の兄ちゃんに、「早く降りてもらわないと自分たちが帰れないんですよね」と苦情を言われる始末でした。
 それで、その兄ちゃんの助言を入れて、シールを剥がし(まるめてザックに押し込みました)、それで2キロメートルほどのゲレンデを滑走して降りました。まあ、とにかく、みっともない登攀になってしまいました。

 それでも、けっこう良い写真が撮れましたし、12キログラムほどの荷物を背負っても、シュテムクリスチャニアぐらいはできるようになり、ザックを背負ってのスキーには自信がつきました。

 とにかく、余市岳には、もう用事がなくなりましたが、あそこは、やはり、鬼門です。


 

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