ぐんまの名工

 ■長屋 長納助■ながや ちょうのすけ
 生年月日 明治30年11月26日
 明治43年 13歳で看板工の父親、鋳蔵に師事し、
       指物、彫刻、漆加工、金箔加工の仕事を
       習う
 昭和18年 東京浅草から前橋に疎開、22年迄休業
 昭和23年 営業再開
 昭和45年 卓越技能者受賞
 昭和50年 勲六等瑞宝章受賞
 昭和53年 病に倒れるこの年迄、仕事に従事
 昭和54年 1月23日死亡(享年82歳)

金箔張りの伝統技法守る

 店鋪や会社などの『顔』として、今も昔も活躍する看板。最近では派手な電機仕掛けの趣向を凝らしたものも多くあるが、当社では長い間、金箔看板の技法を守り抜いています。

北海道・日高産のカツラにこだわる
 金箔看板に使う木は、柔らかいカツラの木。県内でも調達はできるが、北海道の日高産のカツラのきにこだわっていた。文字を下書きした紙をはりつけ、糸ノコでくり抜いた後、一字一字をカマボコ状に削りながら、文字の表面に美しい曲線をつけていく。下塗りを3回、国産の最上級の漆を吟味して、上塗りを1回したあと、金箔を施す。温度、時間など漆塗りには細心の注意が必要であり、金箔張りにはそれ以上に、長年の経験と勘が要求される。最初からすべての行程を終える迄は、最低でも一週間。板に張り付けた文字を糸ノコでくり抜く作業だけは、さすがに機械化となったが、ほとんどは手作業のため、深夜迄作業を続けたことも多かった。

 金箔浮出文字の、ち密な技法を磨いたルーツは、明治11年に父親の鋳蔵が、東京・神田で創業した金箔加工業に始まる。東京を転々とし、総理大臣 伊藤博文の元を出入りしていた芸術家からの勧めで「博文堂」という店名をもらい、浅草に落ち着く。
 昭和23年、疎開のために移り住んだ前橋で営業を再開。幾度か所をかえ、現在地に店鋪をかまえたのは、昭和34年のことだ。卓越した技能に注目する人は多く、一時彫刻の大家である『アシノナンザン』に大変気に入られ、代作をしたこともあった。作品は皇族や華族、政治家、実業家にもてはやされ、大正初期から昭和にかけては、かなりの盛況降りであったという。昭和8年頃から15年頃にかけては、朝鮮や中国など海外へ出向き、その土地の看板業者などに仕事を広め、技術を指導して回った。県内だけでなく、全国から依頼されたという金箔看板は、すべて注文制だった。古くからの創業のため、顔なじみの固定客が大半を占め、1年中仕事に追われる状態も続いたという。注文主は公共施設、民間会社、商店などと広範囲にわたり、ファンも多かった。昭和5年には、上野美術館で開かれた第1回の日展で入賞し、翌年の第2回も引き続き入賞した他、受賞歴は多彩。製作品は膨大な数にのぼる。特に、『立教大学の校章』や横浜中華街の『聘珍楼』の看板、赤城大鳥居の『山号額』などは有名である。







再び見直される特有の色とツヤ
当社では、完成された技術を現在も受け継ぎ、守り続けるています。プラスチック製の看板では絶対に味わえない金箔特有の色、ツヤを是非体験してみて下さい。


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