手前が東院側、向うが西院側です。

次ページ 法隆寺中門(奈良)


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長押の上下の柱の太さを比べると古さがわかります。100年で3ミリほど減るそうです。

妻部分は、梁が二段にわたり蟇股(かえるまた)で支持する構造がそのまま外側に現れます。
二重虹梁(こうりょう)蟇股といいます。

桁行は5間で右2間は吹き放ち、さらに2間分のスノコ縁が付きます。ベランダ付なのです。

前身建物復元図

奈良時代の住宅とされています。
簡素な軸組で、床があるのが特徴です。

東大寺転害門
奈良時代の門は2つしか残っていませんが、これも三棟造です。

真下からの見上げ
門の前後に棟があります。

            二重基壇に建つ夢殿
聖徳太子の菩提を弔うために建てられましたが、祀られているのは救世観音です。

     法隆寺東大門    奈良県   奈良時代 

かつては中門であったといわれる南側の礼堂

夢殿を囲む回廊

夢殿北側の舎利殿と絵殿

西円堂(鎌倉時代1250年)
法隆寺にあるもう一つの円堂です。

軒は二軒、繁垂木

屋根の上の宝形は上から、光芒、宝珠、宝傘、宝瓶、受花と蓮花の反花からなります。

     法隆寺東院 夢殿   奈良県  奈良時代(739年)

屋根が3つある門

法隆寺の東院と西院の間にある八脚門です。
平面図でわかるとおり門の柱以外の控柱が八本あるので、そう呼ばれます。

そして、この門の真下に立って上を見上げると、門の前後に山型の屋根が2つあります。さらにその上に本当の屋根があります。屋根の棟が合計3本あるので、三棟造(みつむねづくり)といいます。奈良時代の伽藍の回廊で外側と内側の両方を通れる造りの場合(複廊といいます。)に外側と内側に屋根を張るので、そこに付いている門も同じように下の屋根を2つ造ったのではないかと考えられています。
奈良時代に流行ったようですが、それ以降にはあまり見られません。江戸時代になって復古調の建築が出てくるとまた採用されている例があります。日光東照宮や東京浅草寺の二天門などです。

奈良時代の住宅? 自宅まで奉納

聖武天皇の夫人(ぶじん:天皇の婦のひとつです)橘古那可智(たちばなのこなかち)は、法隆寺に対して橘夫人厨子をはじめ工芸品や経典などを数多く奉納していますが、東院資材帳によると自分の住んでいた住いまで奉納したことになっています。資材帳の奉納品に「瓦葺講堂一間」とあるのが、この伝法堂とされています。

この時代の仏堂は、入母屋造か寄棟造であり、切妻造は宮殿や住居、寺院では僧房など住まいに使われていました。また床を張らない土間が普通ですが、床があるため、もとは住居であったと考えられています。
この伝法堂は、寄進された建物を改造して東院の講堂として使われていました。
柱や梁、長押などの軸部を残して内側の壁を作る真壁(しんかべ)とういう造りのため、周囲の構造材と壁のコントラストが建物の意匠となっています。

     法隆寺東院伝法堂(ほうりゅうじとういんでんぽうどう)   奈良県   奈良時代

鎌倉時代に大改造

法隆寺東院の正堂で、聖徳太子の遺徳を偲んで造立されました。八角は中国易経の八方位陰陽説から来ているものといわれ、また周りをあまねく照らすため極力円に近づけたともいわれます。
八角の円堂は、興福寺北円堂、栄山寺八角堂など個人の菩提を弔うために8世紀以降に数多く建てられました。

このお堂は、鎌倉時代に組物を複雑にして軒の出を深くし、水はけを良くするため屋根の勾配をきつくするなどの大改造をしています。
平安時代にそれまでの単層の屋根から屋根構造を二重にした野小屋に発展しました。これにより水はけを良くするため屋根勾配をきつくしても軒先が下がらず、内部の屋根も緩やかにできます。また外側の屋根の形状にかかわらず、内部の部屋などを自由に設計できるという画期的な手法なのです。
この野小屋は、雨の多いわが国で考え出され、平安時代以降一般的となった屋根構造なのです。

建築様式 和様
桁行七間、梁間四間 切妻造 本瓦葺

切妻造の梁間二間の左右に一間の庇が付きます。

控柱8本の八脚門

建築形式 和様
八角円堂 一重 宝形造 本瓦葺

建築様式 和様
三間一戸八脚門 切妻造 本瓦葺

内部の厨子

左 鎌倉時代、右 創建時

鎌倉時代改造後(現在)

創建時の復元図