この深くて重い軒を支えるために様々な構造力学手法を駆使した工夫がなされているのです。

まず建物側では、軒桁となる丸桁(がぎょう)を三手先などの組物により出来るだけ上部前方に送り出す。三手先の場合は二手目の上に斜め材の尾垂木を入れて三手目を斜め上に持ち上げる。

一方、屋根側では途中の丸桁を枕にして、本棟から地垂木を斜めに下ろす。これが一段目の軒となります。
地垂木の端先上部には、さらに軒を延ばして、かつ軒が低くならないよう地垂木より緩い勾配の飛檐垂木を地垂木上に載せて二段目の軒として二軒(ふたのき)にする。興福寺北円堂(1210)のように三段に重ねて三軒とすることもあるが例は少ない。

軒の力学的な構造は、梁作用、中でも片持ち梁を基本としている。梁の両端に支点があり上からの荷重を受けるのを単純梁というが、躯体から突き出て梁の片方にしか支点がないものを片持ち梁といいます。
片持ち梁の場合、上からの荷重による曲げ応力は梁の付け根に最大荷重がかかる。斜め材は、この荷重を梃子の原理を利用して付け根の負担を軽減しているのです。

軒の重量は、本瓦葺きで1㎡あたり瓦だけで約130㎏あり、桧皮葺でその約3分の1、杮葺(こけらぶき)の場合は約7分の1ぐらいです。このほかに葺土および垂木自身の重量が加わると1㎡あたり300㎏を超えるようになります。
本瓦葺で幅10m、軒の出を4mとすると瓦だけで5㌧超、軒全体だと12㌧以上の重さとなる。五重塔になると五重目以外の屋根はすべてが軒であり、細い塔身の四面にあるため、軒荷重はさらに大きくなる。たとえば醍醐寺五重塔の初重の屋根()は50㌧を超えるという。

古代 当麻寺本堂 (奈良 平安時代)

深い軒を造り、かつ軽快に見せるため技術的には二通りの手法が組み合わされています。

ひとつは屋根が下がって見えないように軒先に近づくにつれて緩やかな勾配とすることです。技術的には、通常の垂木(地垂木)の上により緩い勾配の飛檐(ひえん)垂木を載せて軒を伸ばします。鎌倉時代になると桔木(はねぎ)を入れて、梃子の原理により軒の垂下を防ぐようになります。こうすることによって屋根が緩やかにセットバックし、見上げた場合にも手前の軒にさえぎられて屋根の大きさが感じられなくなりなす。

いまひとつは、正面から見て屋根が左右に行くにしたがって上方へ反り上がる(軒反り)ように仕上げることです。軒反りを加えることによって屋根は軽やかになり、また経年による垂下を防ぐことにもなります。


軒反りは時代が下がるにつれて反りが強くなる傾向にあります。飛鳥から平安時代までは直線の部分が無く中心から両端にかけて全体的に軽く反り上がる真反り(しんそり)ですが、時代とともに曲線が増してきます。鎌倉時代になると両端が曲率を増した長刀反り(なぎなたそり)となり、近世では中央部が直線で両端がさらに反り上がる。

垂れ下がった軒はそれだけで重苦しく見えるように、軒の仕上げ方により屋根の印象は大きく変わるのです。



深い軒の出は、わが国の社寺建築における固有の特色の一つである。


建築技術の基本的なところは大陸から導入されましたが、深い軒の出は彼の地にはあまり見られず、わが国独自のものであるといえるでしょう。最古の遺構である法隆寺金堂も軒が深く、側柱から水平距離で4mはあります。このことは仏教建築を受容れる際にすべて丸ごと受容れたわけではなく、わが国の実情に合わせて取捨選択が行われていたことを物語ると同時に、当時すでにわが国の実情を踏まえた建築観があり、技術的にも相当程度確立していたことが窺えるのです。

飛檐垂木

加重の流れ

三手先

先ほどみた法隆寺の金堂と五重塔は、残念ながら当時の技術では深い軒が支えきれず、それぞれの初重には支柱を兼ねた裳階が創建直後に造られている。また金堂二重目も室町時代の修復時に四隅に支柱が設けられています。
奈良時代730年創建の薬師寺東塔も明治期の写真では各重の屋根が垂下して支柱だらけですが、明治30年代の修復により桔木を追加したことで現在も優美な姿となっているのです。
しかしながら、1300年以上も前にすでに現代の構造力学にもかなう工法が実践されていたのです。

深い軒は、わが国の雨量と夏の蒸し暑さなど気候風土を考えた歴史的な遺産なのですが、現代の住宅建築では土地が狭隘な上に建築基準法等による各種の制限により居住スペース出来るだけ大きくするところから、ほとんど見受けることがなくなりました。

先人の文化として是非残したいものの一つなのですが。

建物側の組物は、この梁作用を基本とした持送りよる迫り持ち構造となっています。また、荷重の伝達は組物の先端から柱に斜めに落とす方杖方式です。組物も斜め材の尾垂木も上からの荷重を梃子の原理を持つ片持ち梁により受け止めているのです。

一方の屋根側の地垂木は、丸桁を支点とする梃子の原理を利用した片持ち梁で、飛檐垂木は地垂木の先端を支点とする片持ち梁です。 さらに斜め材の垂木および尾垂木は、組物を介して躯体との間に三角形のトラスを構成することにより変形しにくい丈夫な構造としています。(上図参照)深い軒は、建物を落着いて軽やかにして優雅な姿に見せていますが、内実は上部からの荷重に対して力強く巧みに重い軒を支えているのです。

丸桁

尾垂木

地垂木

(注1)桧皮葺 檜の樹皮を整形したものを重ねて葺く、格の高い葺材 
(注2)杮葺 椹、杉などの薄板を重ねて葺いた屋根

軒反りの移り変わり


これらの技術は基本的には大陸から受け継がれていますが、奥行きが大きく屋根勾配の急なわが国の実情に合わせて様々な改良が重ねられてきているのです。
中世の仏堂のように広い縁を持つようになると、それを覆うような軒も必要となることから一般的には中世以降の仏堂のほうが古代の仏堂よりも軒の出が深いのです。

鶴が舞い降りたような軽快な軒を持つ
金剛峯寺不動堂 (和歌山 鎌倉時代)

深い軒は垂木の長さによって決まりますが、単純に長くすると軒先が下がって暗くなるうえ見栄えも悪くなります。社寺建築は先ほどもみたように、ただでさえ屋根が大きい上に軒まで伸ばすと一層重苦しくなります。構造からみても軒先に負荷がかかり垂下する要因にもなります。

深い軒の延暦寺転法輪堂 (滋賀 室町時代)

深くて軽快な軒

次に軒の荷重と力学的な構造を見てみよう。

高層建築である五重塔なども軒の出は、かなり深い。
法隆寺でみると初重で塔身幅6.4mに対し軒の出3.8mが四方に付く、同様に五重目では、塔身幅3.2mに対しほぼ同じ長さの軒が四方に出ます。
仏堂と異なり五重塔は、軒の塔身部に対する平面積の割合は非常に大きく、雨のよく当たる上重になるほどこの割合は大きい。

塔の断面で心柱中央から軒の茅負い先端までと心柱中央から側柱外側までとの距離の比率を、時代ごとに抽出した4つの五重塔(飛鳥時代法隆寺、平安時代醍醐寺、南北朝時代明王院、江戸時代日光東照宮)の平均でみると初重で2.03倍、五重目で2.69倍となります。

これを塔身部と軒部分との面積比でみると、初重で3.2倍、五重目で6.3倍となり、各重の塔身が、平均して5倍近くの面積の軒を抱えているのです。
軒は雨水などから建物を保護するという目的のほか、夏に高温多湿のわが国では雨の日でも窓を開け放つことも多く、また夏の暑い日差しをさえぎる必要があります。
特に直射日光が建物の壁面に当たることによる室内温度の上昇を防ぐためにも深い軒は不可欠なのです。


西洋の石造建築にはあまりみられない軒は木造建築特有のものですが、特にわが国の社寺建築にみられるような深い軒は造形的にみても集まった人を包み込む包容力を示すとともに、裾の広がった優雅な雰囲気を醸し出しているのです。

室町時代に追加された法隆寺金堂の支柱

桔木

飛檐垂木

地垂木

軒の構成 図:日本建築史図集

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「木と壁で作る造形」


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近世 護国寺本堂 (東京 江戸時代)

中世 西国寺本堂 (広島 室町時代)

醍醐寺五重塔 (京都 951年)

中世の仏堂 西明寺本堂とその軒  (滋賀 鎌倉時代)

軒の荷重の伝達 図:日本建築史図集