十一面観音を本尊とする清水寺本堂は同寺の縁起によると778年音羽山に庵が設けられ、平安時代初期に伽藍を創建、平安時代末には現状と同じ正面九間の礼堂が崖上に広がる舞台として造られていたようです。190uの舞台は最長12mの束柱に支えられている。
石山寺本堂の前身は奈良時代に造られ、珪灰石の岩上に安置された如意輪観音を本尊とする仏堂です。正堂と桃山時代に造られた礼堂を相の間で繋いだ複合構造であり、その礼堂部分が懸造となっています。
また、室生寺金堂は平安時代初期に正堂部分が建立されましたが、中世に前面の庇を葺下ろして礼堂部分を付け足したときに礼堂部分を懸造としたものです。

このように懸造は、本堂が造られた後に付加されるため建物の前面にあるのが普通ですが、鎌倉時代に建立された笠森観音堂は、はじめから岩山の頂上に造立されました。周りを61本の束柱で支えた床高16mで、四方懸造といわれる特異な形態です。
懸造は現代風にいえば、「木造の人工地盤」といえます。

崖の下から柱を立てて空中に床を作り、その上に建物が建てられているのです。人工地盤の土台となる束柱は角柱で建物本体の柱よりも細いものが使われています。整然と並んだ束柱を水平の貫でつなぎ、さらに柱と貫の接合部には楔を打って緊結します。

この方法は使われている資材こそ違いますが、現代の鉄骨造でいうラーメン構造と同じ工法です。このラーメン構造の上に板を張り、人工地盤を作り上げているのです。釘は一切使われていません。それでいて数百年にわたり崩れることがないのは木材によるラーメン構造が地震にも強いことが立証されているのです。

西光寺毘沙門堂 (岩手 江戸時代再建)

観音霊場は信仰が篤かったことから比較的大きい懸造の堂宇ですが、小規模の懸造の仏堂もみられます。
石川県那谷寺本堂、鳥取県の三仏寺投入堂、大分県の龍岩寺礼堂、平泉の西光寺毘沙門堂などは、平安・鎌倉時代に山岳信仰の修験者の道場として開かれたものです。
岩山の洞窟に本尊を祀りその前面を仏堂としたものや断崖に張り付くように建てられています。
その規模は観音霊場よりも小さいですが、懸造の技術が早くから地方に広がっていたことを窺わせます。

上記のような懸造は観音信仰霊場に多いのが特徴です。観音信仰は宗派を問わず、あまねく衆生を救済するという観音菩薩への信仰であり、推古朝の頃から既に流布していましたたが、平安時代中期になって聖などにより観音霊場が各地に開かれるようになりました。

華厳経典にインド南方の海上にあるとされる「補陀落(ふだらく)山に観音菩薩が住まう」とあることにより、古くから紀伊半島の熊野を補陀落山と見立てた熊野詣が盛んに行われていましたが、観音信仰が広まるにつれ各地で岩山を浄土と比定してその上に仏堂が造られるようになり、それが礼堂などを持つようになったのです。

如意輪観音を祀る圓教寺摩尼殿 
(兵庫 昭和再建)


清水寺の懸造とその細部

龍岩寺奥院 (大分 鎌倉時代)

醍醐寺如意輪堂 (京都 桃山時代)

四方懸造の笠森寺観音堂
(千葉 桃山時代再建)

釈迦如来を本尊とする室生寺金堂
(奈良 平安時代 懸造は中世)

如意輪観音を本尊とする石山寺本堂
(滋賀 正堂 平安時代 礼堂 桃山時代)

十一面観音を祀る東大寺二月堂
(奈良 江戸時代再建)

懸 造(かけづくり)


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「平入り・妻入りと配置」


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わが国独特の建築形態として、清水の舞台で有名な懸造がある。
懸造とは、急な斜面や段差のある場所に建物を建てる場合に、その床面を水平に保つため床束(ゆかづか)の長さを調整して、床の高さを揃える工法のことです。

京都の清水寺本堂のほかにも醍醐寺如意輪堂、滋賀県の石山寺本堂、奈良県の長谷寺本堂、東大寺二月堂、室生寺金堂、兵庫県の圓教寺摩尼殿、一乗寺金堂、千葉県の笠森寺観音堂など各地に所在し、平安時代中期以降に数多くみられる建築形態です。

これらに共通するのは、傾斜地や山地にあることは当然ですが、もともと本堂自体は懸造ではなかったが、信仰の拡がりとともに本堂に礼堂や庇などを付け足して前面を拡大したことにより、その礼堂部分が懸造となったものが多い。

清水寺本堂 平安時代末期には舞台が造られていたという。

清水寺の懸造は最も多いところで束柱に六段にわたって貫が通され舞台の高さは12mです。束柱は欅(けやき)の一丁材が使用されており、水平の貫は雨などで痛まないように上辺に傘のような覆いが付けられています。

貫は、本体の建物では鎌倉時代以降のものにしか見られないことから、一般には鎌倉時代に中国から伝わったとされていますが、清水寺や室生寺などの懸造は、既に平安時代に出来上がっていました。

鎌倉時代より前では、鑿(のみ)などは無く、道具の未発達により太い柱には貫が貫通するような貫孔は穿てなかったのですが、どういう方法で懸造を造ったのか当時の遺構がないためはっきりとはしない。
また懸造は大陸には見られない工法であり、おそらくわが国で考案されたものと思われます。木を熟知して、それを自由に扱える技術が早くから備わっていたのでしょう。

那谷寺本堂 (石川 江戸時代再建)