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 ~特別編~わが身は木石にあらず  (第六回) ●平城の恥


 前回、高祖劉邦は冒頓單于の計略にはまり窮地におちいったが、当面の停戦協定により九死に一生を得て、からくも匈奴軍の包囲から逃れた。 課題として残ったのが、今後の対匈奴政策である。 和戦いずれの道をとるか、どのような策があるのか。 高祖は 劉敬 に問うた。 劉敬 はいう。

 
 「天下初めて定まり、士卒は兵に罷
(つか)る。未だ武を以って服すべからざるなり。冒頓は父を殺し代りて立ち、羣母を妻とし、力を以って威と爲す。未だ仁義を以って説くべからざるなり。獨り以って久遠の子孫を臣と爲すを計るべきのみ。然れども恐らく陛下は爲す能わず」


 史記 列傳 卷九十九 劉敬叔孫通列傳第三十九 より 抜粋読み下し

  「天下はいまだ定まったばかりで兵は戦に疲れております。武力で匈奴を降すことはなりますまい。しかも、冒頓は父を殺して單于となり、父の妻たちを自分の妻とし、力をもって匈奴を統括している男です。仁義をもって説いても聞き入れるような者ではありません。ただ一つだけ匈奴の子孫を永久に漢の臣下となす方策がありますが、しかし、おそらく陛下はおできにならないでしょう。」
 劉敬 の言いまわしは実に巧妙である。 まず、わざと 「どうせあなたにはできないだろう」 と劉邦の反発心をあおり、やる気をかきたてる。 後の 武帝 であればこのような言い方をすれば、「上をあなどるか!」 とたちまち首が飛ぶところだろうが、そこは高祖劉邦だ。 一度は腹を立てて牢屋にぶち込んだ者の言でも、相手が正しいと悟ればよけいなプライドなど捨てて虚心に臣下の言葉を聴くのである。

 
 「誠に可ならば、何爲(なんすれ)ぞ能わざらん。顧(おも)うに爲すこと柰何(いかに)


 史記 列傳 卷九十九 劉敬叔孫通列傳第三十九 より 抜粋読み下し

 「まことにそのようなことが可能ならば、どうしてわしにできないなどということがあろうか。さあ、どうすればよいのだ?」

 
 劉敬、對えて曰く、「陛下、誠に能く適長公主(てきちょうこうしゅ/
=劉邦の長女をさすを以ってこれに妻とし、厚くこれに奉遺(ほうけん)すれば、彼は漢の適女(てきじょ)を送くること厚きを知り、蠻夷も必ず慕いて以って閼氏(えんし)と爲さん。子を生まば必ず太子と爲し、單于に代わらん。何となれば、漢の重幣(じゅうへい)を貪(むさ)ぼればなり。陛下は歳時に漢の餘(あま)す所、彼の鮮(すく)なき所を以って數(しばしば)問遺(もんい)したまえ。因りて辯士をして禮節を以って風諭(ふうゆ)せしめん。冒頓は固(もと)より子婿(しせい)と爲すに在り。死すれば則ち外孫が單于と爲る。豈に嘗て外孫の敢えて大父(たいほ/=祖父と禮を抗するを聞かんや。兵の戰うこと無く、以って漸(ようや)く臣たるべきなり。」


 史記 列傳 卷九十九 劉敬叔孫通列傳第三十九 より 抜粋読み下し

 ものは言い様とはこのことである。 要するに 「劉邦の長女を單于に人質として差し出せ。常に貢物を絶やすな」 と言っているのであるが、うかつに聴いているとそうは聞こえない。 やがて高祖の実の孫が單于となるのであるから、なるほど百年の妙計であるように思えてくる。 が、長女を單于の妻に出すということにはさすがに劉邦もたじろいだ。  劉邦 には時として 「けちくさい」 というか 「しみったらしい」 というか、人にものを与えるときに 「なんとか安くあがらんか」 とものおしみするようなところがある。 このときも、なにか咄嗟に思案しているように見えたのだろう。 そのような高祖の性格を心得ている 劉敬 は、最後に釘をさす。

 
 「若(も)し、陛下、長公主を遣る能わずして宗室及び後宮をして詐(いつわ)りて公主を稱せしめれば、彼も亦知り、貴び近づくことを肯(がえ)んぜず。無益なり」と。

 高帝、曰く、「善し」と。


 史記 列傳 卷九十九 劉敬叔孫通列傳第三十九 より 抜粋読み下し

 さぞや高祖は苦い顔をしていただろう。 しかし、かくて 劉敬 の計は実施ときまった。 だがここで抵抗したのが皇后の 呂后(りょこう) である。

 
 呂后(りょこう)は日夜泣きて曰く、「妾(しょう)には唯だ太子一女のみ。柰何(いかに)ぞこれを匈奴に弃(す)てん」と。 上は竟(つい)に長公主を遣わすこと能わず。 而して家人の子を取り名づけて長公主と爲し、單于に妻とす。 劉敬をして往きて和親の約を結ばしむ。


 史記 列傳 卷九十九 劉敬叔孫通列傳第三十九 より 抜粋読み下し

 呂后 の子は一男一女であった。 そのたった一人の娘を匈奴にさしだすことなどできないと 呂后 に泣かれて高祖は困った。 結局一族の中から娘を選び、長公主といつわって匈奴に与え、劉敬を使者として匈奴と和親を結んだのである。 漢にとっては屈辱的な和親であった。 これを世に 「白登山の恥」 または 「平城の恥」 といい、後に武帝の時代に 「平城の辱を雪ぐ」 というのが対匈奴積極策にうって出る合言葉のようになった重大な事件であった。


 ところで、最初に匈奴に降った韓王信はその後どうなったか。 以下は後日談である。 白登山の戦いから四年後の高祖十一年。

 
 十一年春。 故(もと)の韓王信は復た胡騎と入りて參合(さんごう/
=地名に居り、漢を距(ふせ)ぐ。 漢は柴將軍(さいしょうぐん/=柴武をしてこれを擊たしむ。


 史記 列傳 卷九十三 韓信盧綰列傳第三十三 より 抜粋読み下し

 漢の将軍 柴武 は韓王信を包囲し降伏を勧めたが信は応じず、ついに柴將軍に攻められて死んだ。 しかし、その子孫は匈奴に残った。

 
 信の匈奴に入るや、太子と倶(とも)にす。 當城(たいとうじょう)に至るに及び、子を生む。 因りて名を(たいとう)と曰う。 韓の太子も亦(また)子を生み、命(なづ)けて嬰(えい)と曰う。


 史記 列傳 卷九十三 韓信盧綰列傳第三十三 より 抜粋読み下し

 時代はくだり、漢の文帝の十四年のとき。 

 
 孝文十四年に至り、(たいとう)及び嬰(えい)は其の衆を率い漢に降る。 漢は封じて當を弓高侯と爲し、嬰を襄城侯と爲す。 呉楚の軍
=呉楚七国の乱の時、弓高侯の功は諸將に冠たり。 子に傳え孫に至る。 孫は子無く、侯を失う。 嬰の孫は不敬を以って侯を失う。


 史記 列傳 卷九十三 韓信盧綰列傳第三十三 より 抜粋読み下し

 さらに時代はくだり、武帝のとき、すなわち 司馬遷 や 李陵 と同時代に…。

 
 當の孼孫(げつそん/
=妾腹の孫韓嫣(かんえん)は貴幸(きこう)せられ=武帝に寵愛されたということ、名富(めいふう)當世に顯(あらわ)る。 其の弟の説(えつ)は再び封ぜられ、數(しばしば)將軍を稱し、卒(つい)に案道侯と爲る。

 子代わり、歳餘にして法に坐して死す。 後、歳餘にして、説
(えつ)の孫の曾(かい)は拜して龍(りょうがくこう)と爲り、説(えつ)の後を續ぐ。


 史記 列傳 卷九十三 韓信盧綰列傳第三十三 より 抜粋読み下し

 この 韓嫣 という人物は記憶にとどめておいてほしい。 のちにわずかながらも 李陵 の一家にかかわりをもってくるのである。


(2007年4月18日 記)


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