1932年「P.C.L&東宝」誕生す!!

1932年(昭和7年)。第1次上海事変の勃発や満州国の建国、5.15事件、特高警察の設置など、日本にキナ臭い空気が漂いだした年のこと…。

その6月。当時はまだのどかな田舎そのものだった東京は世田谷の砧に、小さな会社が生まれた。その名は「写真化学研究所」。(Photo Chemical Labolatory)。略称は頭文字をとってP.C.Lと名乗った。

当時、日本に普及しつつあった「トーキー映画」の録音技術を大手映画会社「日活」や、「ニュース映画社」に提供するための下請け技術会社だ。しかも、その録音技術は独自開発した純国産トーキー!技術力の高さや、今後のトーキーの普及から考えるとP.C.Lの未来は前途洋々だった。

一方、同じ年の8月。当時からすでに賑やかだった東京・日比谷にそこそこ大きな会社が生まれた。その名は「東京宝塚劇場」。略称はもちろん「東宝」である。

阪急電鉄の社長でもあり、宝塚歌劇団のオーナーでもある関西の鉄道王「小林一三」が、宝塚歌劇の東京進出のために作った会社だ。しかし鉄道王にとって、それはさらなる巨大プロジェクトの単なる一歩にしかすぎなかった。野望は「日比谷に日本一の巨大劇場街を作る!」こと。さすが鉄道王! スケールがでっかいね!

鉄道王・小林一三

男として生まれたからには一度くらい○○王って呼ばれてみたいよな! それはさておき「朗らかに、清く、正しく、美しく」がこの人のモットーだった。そのモットーは宝塚歌劇にも東宝映画にも受け継がれた。

そんな二つの会社が運命的に結ばれてゆくのだがそれはまだ少し先の話………となる。


日活の裏切りから生まれた東宝撮影所!

話をP.C.Lにもどそう。さて、そんな前途洋々のP.C.Lはさらに気合いをいれ、資本金も増資。最新の機材もそろえ、録音ステージも建てた。

ところがである。落とし穴は突然現れる。最大の顧客だった「日活」が、突如P.C.Lとの提携を解除、別の録音会社に乗り換えてしまったのだ。このままではやばい。倒産してしまう…。

そこで考えた解決策はなんとも大胆な方法だった。せっかくの最新機材も優れた技術も、使われなければ宝の持ち腐れである。ならば、自分で使ってやれとばかりに映画の自社製作をする事にしたのである。苦境に立たされていたP.C.Lではあったが、今度はその映画の自社製作をするためにわざわざ1万坪の大スタジオを建ててしまったのだ。なんという、ポジティブ・シンキング! 今の、日本の企業経営者に爪の垢を煎じて飲ましたいぐらいの前向きさではないかっ!

逆境にもめげずに作ったのがこのスタジオ。1万坪の敷地を持ち、白亜の建物は、ハリウッドのRKOスタジオを模した、当時の最先端建築。スゲー!


第1回作品「ほろよひ人生」完成!

そんな逆境にもめげないポジティブ・シンキングでスタジオもOK! 映画作るぞーっと作り、翌1933年に完成・公開したのがP.C.L第1回作品「音楽喜劇ほろよひ人生」。

タイトルからもわかるとおり、ミュージカル・コメディである。この後の時代、1950〜60年代の東宝最大の得意分野はなんだと聞かれた場合、「やっぱ特撮とミュージカルでしょ!」と言いきってしまえる私にとって、第1回作品がミュージカルコメディだったという事実は実に感慨深いものがある。

「ほろよひ人生」(1932年・木村荘十二監督)右は珍しく若い藤原釜足、左は後に成瀬巳喜男の奥さんになる千葉早智子。ヤルセ・ナキオと言われながらスミに置けない。


とはいえ、日本最初のトーキー映画「マダムと女房」(1931年・松竹蒲田・五所平之助監督)も、劇中「スピード・ホイ」という間抜けな歌を歌い踊るミュージカル的味付けをしていたヘンテコな映画だったし、MGMミュージカル「雨に唄えば」でも、「トーキー時代到来! じゃミュージカルをつくろう!っていう展開だったから、トーキー=ミュージカルっていうのはごくごく自然な流れだったのかもしれない。

しかし、実はここが重要なポイントなのである。というのも、当時トーキーはまだ黎明期。まだまだ、活弁士の講釈を聞きながら映画を見るというのがごくごく当たり前だった時代だ。実際製作されている本数もサイレントとトーキー半々くらいの割合でしかなかったのである。ところが、P.C.Lはもともと録音スタジオだったために生まれながらにしてオールトーキーという製作環境にあったっ!実はこれが後に「東宝といえばミュージカル映画」という得意分野=「東宝カラー」の源流になったのではないかと私は推測している。


映画は出来た!劇場がなかった!

さて、「ほろよひ人生」のところで「翌年、完成・公開」と、いかにも順風満帆のように書いてしまったが、実のところそうではない。劇場がなかったのだ。当時、日本の映画界は松竹、日活、新興、大都という4社の寡占状態。全国の劇場はほとんどこの4社の系列館でいくらフィルムを持っていっても、鉄板のような契約の前には為すすべもなかったのだ。

まぁ、「ほろよひ人生」はなんとか東和商事(現在の東宝東和)に泣きついて上映にこぎ着け成功は収めたものの、自社で系列館を持たないことには需要もなければ、供給も出来なかったのである。

で、そこに出てくるのが「東京宝塚劇場」の小林一三。
実はこの、おっさん、いや、この鉄道王は日比谷を日本一の劇場街にという野望を描いていたのだが、劇場経営のため、ちょうど上映、もしくは上演するプログラムを探していたところだったのだ。

1933年の日比谷界隈。右上方にオープン直後の「日劇」。中央に建設中の「日比谷映画」。左下にオープンを目前に控えた「東京宝塚劇場」が見える。んだけど、写真が小さいんでわかりづらいと思う。ごめん。

まさに渡りに船。こうして、P.C.Lと東京宝塚劇場は運命的な出会いをし、その後、結婚へとつながる蜜月の恋人生活が始まったのである。社名も「PCL映画製作所」と改名。いよいよ、本格的に映画製作の乗り出して行ったのである。


プロデューサー・システムの採用

この、後に東宝映画となるP.C.Lの画期的だった点はオールトーキー体制もさることながら、アメリカ映画通の後の社長「森 岩雄」の発案によるプロデューサー・システムの採用にあると言われている。プロデューサー・システムとは複数のプロデューサーを社内に置き、それぞれが、複数本の企画を抱えながら、監督、脚本、配役を含めその作品における決定権を持ち同時に、全責任も負うという今では当たり前のシステムのこと。

当時、日本映画界でのスタンダードはスター・システムだった。スター・システムとは、先生と呼ばれ、付き人も何人も付けたスターがすべての中心。脚本も演出も平気で口を出す

「ワイが言うたら、黒だってなんや!」の世界。

時としてそれは監督であったり、撮影所長だったりするが、とにかく限られた人間による独裁的なやり方で、映画の企画立案から製作までおこなうというのが普通だった。

たとえば、「松竹」なら城戸四郎という撮影所長の絶対的権力の下、すべてが仕切られていた。そこでは、城戸がOKといえばOK。ダメならダメである。「小津はふたりいらない」と成瀬巳喜男を「松竹」から追い出してしまったことからもわかるように、いくら天才的な人物だといっても、結局は城戸ひとりの趣向に偏ってしまわざるをえない。

その点、プロデューサー・システムなら、ある企画をAというプロデューサーが気に入らなくてもプロデューサーBは気に入り製作がする事もある。また、プロデューサーで現場を少し離れたところから見るから、客観的な意見も言えるし、複数の価値観があるためいるため、企画もバラエティになってくるという利点もある。

「噂の娘」(1935年・成瀬巳喜男監督)で使用された「東宝マーク」ならぬ「P.C.Lマーク」。当時はアルファベットを使った社名だけでもモダンでリベラルのイメージを持たれた時代。


そしてそんなリベラルな空気に触発され、様々な才能が砧撮影所に集まるという、あまりに大きな「おまけ」もこのシステムにはついてきたのだった。


集まる才能!快進撃の始まり!

1934年頃(昭和9年)からリベラルでモダンな社風のもと、新たな人材が次々と砧の門を叩くようになった。松竹から追われた成瀬巳喜男をはじめ、日活からは山本嘉次郎、山中貞雄、伊丹万作などなど。従来の封建的・排他的な映画会社に飽き足らない若い才能が集まってきた。

また、当時はコネを頼っての縁故入社ぐらいしか採用される事のなかった映画会社で初めて新聞広告でスタッフの募集を行い、広く才能をもとめたのも、リベラルなP.C.Lならではの事だったという。そして、その公募から集まってきた人材の中には中、黒澤明、谷口千吉、本多猪四郎など、後に東宝の屋台骨を背負う若者たちがいたのことは、まさに「先見の明」があったと言わざるを得ないのである。

一方、当時はスターも専属契約が当たり前で、既存のスターを使えなかった東宝はまだ、どの会社も唾を付けていない、舞台で活躍していたコメディアンたちに活路を求めた。既に人気のあった古川ロッパ、そして浅草の星・喜劇王エノケンである。

「エノケンの青春酔虎伝」(1934年・山本嘉次郎監督)この映画からエノケンは浅草のスターから、日本のスターへと上り詰めた。第1次P.C.L=東宝黄金時代の始まりを告げた作品でもある。

1934年、P.C.Lはエノケン一座と提携。第1回作品「エノケンの青春酔虎伝」を皮切りに、山本嘉次郎監督と主にコンビを組み、ドル箱シリーズを連発。快進撃の礎を作ってゆく。

一方文芸作品でも、徐々に充実を見せ、1935年に成瀬巳喜男監督が制作した「妻よ薔薇のやうに」ではキネ旬ベストワンを獲得、一般の観客からも、コアな映画ファンからも、優れた映画会社として認知されるようになった。

「桃中軒雲右衛門」(1936年・成瀬巳喜男監督)の「P.C.Lマーク」。20世紀FOX調のサーチライトがカッコイイ。このころの映画会社タイトル・ロールは作品によってまちまちな事が多く、年代順に並べてみてみるのも一興である。



東宝映画配給株式会社の誕生!

1936年(昭和11年)。2.26事件、正式国名が「大日本帝国」になるなど、右傾化が著しく進んだその年の6月、「東京宝塚劇場」を母体にした「東宝映画配給会社」が誕生する。これは「東京宝塚劇場」とP.C.Lの提携関係をより深くさせ、P.C.Lを中心に、J.O.東京発声など「東宝ブロック」と呼ばれた映画製作会社で製作された映画を配給するために作られたものだ。

さらに、翌1937年にかけて、歌舞伎界の古い因習が嫌で飛び出した役者たちのグループ「前進座」との提携や、既に他社スターとなっていた大河内伝次郎、山田五十鈴、入江たか子、高田稔、原節子、高峰秀子らも続々入社を果たし、製作体制も、配給体制も盤石なものとなりつつあった。

1937年と言えばやはり「人情紙風船」。山中貞雄の遺作となった傑作だ。同年、黒澤明が助監督として参加し「七人の侍」に影響を与えた「戦国群盗伝」も公開。

まさに飛ぶ取り落とす勢いの新興勢力! しかし、それを面白く思わないのが既得権益をむさぼり、寡占状態の上にあぐらをかいていた松竹、日活、大都、新興の4社だった。4社協定を結んだこの仲良しグループは、1937年(昭和12年)、「東宝映画不上映連盟」なる団体を結成! 全国の劇場に「今後、東宝の映画を上映まかりならん。もし違反した場合には4社の映画は配給ストップ」という、えげつない圧力をかけ始めたのだった! そしてその仁義なき戦いは、ついに世間を震撼させた大スキャンダルが発生してしまう!


世間が震撼した世紀のスキャンダル!

林長二郎=長谷川一夫といえば、当時の松竹の看板を背負って立つ大スター。そんな彼が、東宝の引き抜きにOKを出し、移籍を表明した後のことだ。1937年の11月12日、なんと彼は、暴漢に(4社協定サイドに雇われたと推測されるが…)役者の顔を、刃物で切り裂かれるという事件に遭遇してしまう!

ま、現在でいえば「キムタク」がジャニーズから、新しいプロダクションに移籍しようとして刺されたくらいな事件と思ってもらいたい。もし当時ワイドショーがあったら、TBS「ブロードキャスター」の中の「お父さんのためのワイドショー講座」でダントツ1位にランキングされるのは確実ぐらいのスキャンダルだったのだ。いつの世でも芸能界は移籍が絡むと恐ろしいものである。

林長二郎が事件からの復帰後の第1回東宝作品「藤十郎の恋」。名前も本名長谷川一夫に変名。再起をかけた。その後、長谷川は戦前の東宝の二枚目看板スターになり、数々の作品に主演することとなる。


東宝も慌てたが、さすがにこれには4社協定側も慌てたらしい。「ヤリスギ」と思ったのかもしれない。以降、事件の沈静化と共に、4社による
「東宝バッシング」も徐々に沈静化をしていったのである。


4社合併! 東宝映画株式会社ついに誕生!

さて、その世紀の大スキャンダルと前後するように同じ1937年。東宝も大きな変化が訪れていた。それまでは「東宝映画配給株式会社」が配給、P.C.L、J.O.スタジオ、東京発声が製作という4社提携のスタイルをとっていたのだがついに合併。その名も「東宝映画株式会社」として新たなスタートを切ったのである。スターもいる。製作体制もバッチリ。配給もOK。創業わずか5年で、「東宝映画」は一流の映画会社に成長してしまったのである。まったく、勢いって言うのは恐ろしいね…。

そんな具合で「東宝マーク」もこんな具合になった。ちなみにこれは1939年の成瀬巳喜男作品「まごころ」からパクったものだが、前年の山本嘉次郎作品「綴方教室」でも同じタイトルロールが使用されていた。

東宝を作った巨匠、山本嘉次郎監督

この章をを締めるにあたって、どうしても書いておかなければいけない事がある。「東宝」を作った巨匠・山本嘉次郎監督の事だ。

東宝黎明期の巨匠・山本嘉次郎監督

慶応大学出身のインテリで、並はずれた博識の人だったらしい。戦後、本業の傍らテレビでもコメンテイターなどで活躍をしていたそうなんだが残念ながら私は知らない。
「東宝」を作ったというと語弊があるかもしれないが、エノケン主演の「ミュージカル・コメディ」から、高峰秀子主演の「文芸もの」、そして戦時下における特撮を駆使した「戦記もの」まで、のちのち東宝の看板となる様々なジャンルの作品を監督し、そのどれもが一様に高い水準だった事は驚きである。

山本監督の代表作のひとつ「綴方教室」

画面左はおなじみ「おかゆコント」を演じるハナ肇……なんてことは決してない。…念のため。
と、同時に黒澤明、谷口千吉など、戦後の東宝を背負う後進を立派に育てたという功績もスゴイ! 成長する企業には、必ずこのように自分も一流でありながら、人を育てる分野においても一流な人が必要なのだ。そういった意味で、山本監督がいなければ「東宝映画」はここまで成長しなかったかもしれないのだ。東宝黎明期におけるもっとも功績が会った人物だろう。

さて、そんな山本監督が中心になり育て上げた「東宝映画」も、戦争の拡大という新たな局面を迎え、良くも悪くも次のステップに突入してゆくのである。

このページの先頭に戻る




トップページに戻る