東宝の戦後は「3つのN」で始まった…

 「日本国憲法」が公布されることになる1946年(昭和21年)。東宝の戦後は「3つのN」で始まった。「3つのN」とは当時の撮影所長・森岩雄が、この前年の1945年(昭和20年) に書いた「製作再建白書」の中の言葉。戦後という新時代を迎えるにあたっての3つの条件のことだ。つまり…
1.New Face(ニューフェイス=新たな人材)
2.New Plot(ニュープロット=新たな企画)
3.New Treatment(ニュートリートメント=新たな製作処理) 

である。幸い都心を離れていた東宝撮影所は戦災を免れていたものの、人材や資材の不足からとてもじゃないが「映画を量産」する状況ではなかった。この様子を山本嘉次郎は「撮影所内はがらんとしていて廃墟のようだった」と語っている(山本嘉次郎の終戦手記より)。そんな中、森が提示したこの「3つのN」は茫然自失となりその前途を悲観した撮影所員達への激励でもあったのだ。

ニューフェイスの募集

お金も家も食べるものさえも無いが、開放感と希望だけはあった時代の笑顔。この笑顔が日本を復興させた原動力になったのかもしれない…。


未来の大スター=ニューフェイス登場!

 その「3つのN」のひとつニューフェイスから、大輪の花が開き、やがて、東宝の歴史だけでなく日本映画の歴史を塗り替える人物が誕生することになる。ちなみに第1回のニューフェイス募集はこの年(1946年)の6月に募集された。コネなどでしか採用されなかった日本の映画界において「映画俳優を公募する」なんていうのはもちろん前代未聞のこと。世間の注目は「21世紀の石原裕次郎を探せ!」どころの比ではなく、通信事情が悪かった時代にも関わらず4000人の応募があったという。そしてそんな中から抜擢されたのが久我美子、若山セツ子、そして「世界の」三船敏郎である。

東宝ニューフエイス第1期・男優編

小さくてよくわからないが後列一番左が堺左千夫。一人飛ばして三船敏郎。写真に写っていないメンバーに伊豆肇、岡豊などがいた。みんな三船と同期入社だったんだねぇ。

      

東宝ニューフエイス第1期・女優編

こちらも小さくてよくわからないが若山セツ子、久我美子、木匠久美子(後にマユリ)等がいる。他にも、後の三船夫人吉峰幸子、マキノ正博監督夫人の鳳弓子もみんなニューフェイス第1期。

 もともと実家が写真館だったこともあり、撮影助手として応募していた三船は履歴書を勝手に「ニューフェイス応募」に回されてしまったことに怒っていたという。「自分の面で金を稼ぐなんて男のやる事じゃない」という信条を持っていた三船は、審査(オーディション)においても態度が悪かった。「笑ってくれ」と言われても「可笑しくもないのに笑えません」と言い切ってしまう始末。当然のように落選のはずだった。が、そんなぶっきらぼうで野獣のような個性を評価し無理矢理合格させたのは、山本嘉次郎、黒澤明、谷口千吉の強い推薦があったからだという。ともかく「自分が責任をとる」と言ってしまった責任上、山本嘉次郎は「新馬鹿時代」で、谷口千吉は「銀嶺の果て」で、黒澤明は「酔いどれ天使」で三船を起用し、大スター三船敏郎が誕生する。サクセスストーリーとは往々にしてこんな伝説めいたエピソードがついて回るものなのだ。

ニューフェイス選考会での三船敏郎

まさに大スター=三船敏郎誕生前夜。なんだかんだ言っても、やはり少しは緊張しているようだ。珍しい1枚。



民主化教育の名の下、映画の検閲再び…

 しかし、もうひとつの「3つのN」、ニュープロットはというと簡単には上手くいかなかった。戦争が終わり軍部という映画業界を牛耳る親分は去った。しかし今度は新しい親分が映画業界を牛耳り始めたからだ。新たな親分の名前は民間情報教育部。通称=CIEと呼ばれるGHQの指揮下のこの組織は、日本の民主化教育を目的に映画を検閲指導し始めた。このアメリカ民主主義の尖兵とも言える組織の検閲指導は、ある意味で戦時中の日本軍部の検閲よりも厳しかったという。ともかく日本のこれまでにあった全てのものが「封建的である」という理由で全否定され、あらゆる作品において過度なまでの民主主義の強調が要求されたのである。その結果、黒澤明の「虎の尾を踏む男達」が上映不許可になるなどの憂き目にあい(もっともこの「虎の尾…」不許可の原因に関してはいくつかの説があるのだが…)、また、映画に娯楽を求めた大衆からあまり歓迎されない作品も多数生む結果となってしまった。ともかく日本はGHQという絶対的な権力の元で、ガチガチの規制を受けた民主主義の道を歩き始めたのだ。

虎の尾を踏む男達(監督・黒澤明)

1945年製作にも関わらず、GHQによる上映不許可になってしまったため公開されたのは1952年まで公開できなかった。内容的には歌舞伎の勧進帳をベースにコメディ仕立ての作品。


 一方、そんな民主化教育とともに、日本国内に新たな勢力が生まれようとしていた。様々な労働組合を傘下におく共産党勢力である。戦時中活動を禁止され弾圧されてきた共産党勢力は終戦後一気にその勢力を伸ばしていったのである。ちなみにここで言う共産党とは現代の「平和主義」を旗印にしているような団体ではない。ソビエト共産党とも密接なつながりを持つ、赤色革命という名の暴力革命を本気で起こそうとしていた極左勢力だ。そして日本各地で資本家=会社と労働組合との血で血を洗う「労働争議」を繰り広げられるようになったのだ。当然のように東宝の中にも労働組合が生まれ会社と対立してゆく。

泥沼の東宝争議勃発!!

 そんな中(ニューフェイスの募集とは前後するが)、1946年(昭和21年)3月、東宝と組合との全面対決の火蓋はついに切られた。第1回東宝争議の勃発である。給与制度の全面改正案、早い話が「給料をあげろ」「あげない」で始まった対決は15日間に渡る一進一退を繰り返しとりあえずの解決を見た。しかしその解決はあくまでもお互いが妥協をした上での解決にしかすぎず、この年の10月第2次東宝争議が勃発、組合側はゼネストゼネストに突入した。こうなるともう撮影所は映画を製作するところではなかった。今度は51日間に渡る闘争の末の締結。また、この2回にわたる争議で、労働組合は勢力を伸ばし、自社製作する作品の企画にも強い発言力を持つようになっていった。しかし労働組合側もその温度差の違いから3つの会派に分裂。まさに群雄割拠の「仁義なき戦い」という一触即発の状態のままでの解決だった。ともかく、一応の解決を見た東宝争議であったが、これはまた新たな闘争のための準備期間しかすぎなかったようだ。黒澤明の用心棒の中のセリフ「ヤクザの手打ちほどコワイものはない」もこの状況をみて生まれた言葉かもしれない(笑)。

「或る夜の殿様」

大河内傳次郎、長谷川一夫、藤田進、山田五十鈴、高峰秀子という超豪華な顔ぶれだけに大ヒットしたのも当然か? とにかく、まずスターありきの時代でもある。しかし、この後すぐに、このスターたちに異変が起きようとは…。

 ともかく、そんな中でもこの年、東宝は「或る夜の殿様」(監督・衣笠貞之助)の大ヒットを飛ばすなどしたが、その一方で「我が青春に悔いなし」(監督・黒澤明)が第2次闘争のゼネスト中に封切られたため、やむなく日活系で公開されるという異常事態も生んでしまったのも事実である。また、「民衆の敵」(監督・今井正)や、今では黒澤明の作品リストから削られている「明日を創る人々」のような組合の影響が色濃い作品が量産されたのもこの年の特長といえる。いずれにせよ、東宝にとって(いや、日本全体にとってというべきか)戦後の方向性を決める重要な年になったことは間違いない。

「十人の旗の会」脱退! 新東宝設立!

 翌1947年(昭和22年)は波乱の幕開けとなった。東宝の組合支配に反対した渡辺邦男監督を筆頭に大河内傳次郎、長谷川一夫、山田五十鈴、原節子、高峰秀子などの大スターたちが「十人に旗の会」を結成。退去して東宝を脱退してしまったのである。そして3月この動きと同調するように撮影所員400名が組合を離脱。彼らは第2撮影所に収容され新東宝を設立することなる。余談にはなるが、この時東宝が分割した第2撮影所の一部は今でも「東京メディアシティ(通称TMC)」として残っており。テレビの世界でお世話になっている私は番組の収録などで「TMC」に行くたびに「ああ、ここが東宝争議の舞台となった…」と胸を熱くしたりするのだ。

現在のTMC外観

数あるスタジオの中でも、私の胸を熱くさせてくれるスタジオ。分裂前には「ハワイ・マレー沖海戦」の真珠湾の特撮セットが組まれたのもこの場所である。


 ともかく会社分割という未曾有の危機に直面した東宝。戦前「東宝モダニズム」で一世を風靡した面影はもはやなく、ハッキリ言って「死に体」といっても良かった。撮影所機能も弱体化し24本の製作予定があったにもかかわらず、実際製作されたのはたった13本。観客を呼べるスターもなく、もはや映画を作るどころでは無くなってしまったのである。しかし、その会社分裂は後の東宝の躍進の種をまいたのも事実である。スターもいない、ベテランのスタッフも数少ない状況の中、東宝は新しい人材の起用を積極的に行ったからだ。

ニューフェイスの活躍! 

3月公開のオムニバス作品「四つの恋の物語」(監督・豊田四郎・成瀬巳喜男・山本嘉次郎・衣笠貞之助)では久我美子、若山セツ子がデビュー。8月には山本嘉次郎門下の谷口千吉が「銀嶺の果て」で監督デビューを果たすと同時に、ニューフェイス=三船敏郎の名を一躍世間に広めることとなった。しかもふたを開けてみるとキネ旬のベストテンに入ったのが「戦争と平和」(監督・山本薩夫)二位、「今ひとたびの」(監督・五所平之助)三位、「女優」(監督・衣笠貞之助)五位、「素晴らしき日曜日」(監督・黒澤明)六位、「銀嶺の果て」七位、「四つの恋の物語」八位という、13本製作のうちなんと6本が東宝作品で占められるという質的向上を見せた年でもある。

「銀嶺の果て」

三船敏郎の鮮烈なデビュー作。同時に監督・谷口千吉、音楽・伊福部昭のデビュー作でもある。ノンクレジットであるが岡本喜八もフォースの助監督として参加。山に強いことを強烈にアピールした働きぶりだったという。


 さらに翌1948年(昭和23年)には黒澤明が「酔いどれ天使」を発表。キネ旬のベストテン堂々の第1位に輝き、三船敏郎は押しも押されぬスターへと成長を遂げた。しかし、皮肉なことに東宝の状況は作品の向上とは反比例するかのように反比例していったのである。製作本数の減少から経営は悪化、そのためこの年の4月に1200人のリストラを発表したのだ。ちなみにこの当時の東宝女子社員の給料は1200円。地方銀行の支店長くらいの手取りがあったと言うから決して悪くない。会社側としては、そんな経営を続けていれば破綻するのは目に見えていたのである。しかし組合側は当然この1200人のリストラを拒否。無期限のストライキに突入し撮影所を占拠するという対抗策に出たのだ!

史上最大の「第三次東宝争議」勃発!

 「軍艦だけは来なかった」と世に言う「第三次東宝争議」の勃発である。もはや撮影所機能は完全にストップ。6月には会社側はその対抗措置として占拠している組合員達に退去させるため撮影所を閉鎖した。しかし、その後も組合による撮影所の占拠は続きついに8月、東京地裁の仮処分を執行、武装警官2000人と、米軍第8軍が出動し撮影所を包囲、戦車4台、機関銃、迫撃砲、空には偵察機までが飛ぶという緊急事態にまで発展していったのだ。

第三次東宝争議

日本の武装警官、米軍がジープ、戦車、装甲車などを引き連れ撮影所を包囲。その列は延々2キロという長さになったという! まさに一触即発。ヘタをすると発砲という事態にまでなっていたかもしれない。

   

にらみ合い

警官隊と組合員のにらみ合いは延々と続いた。戦後になってまで銃を突きつけられる事態が来るとは思っても見なかっただろう。戦地での出来事をリアルに思い出していた人々もいたはずだ。

  

警官隊突入!

財産保全の仮処分執行のため、ついに警官隊がバリケードを破って突入!結局、このために一時的に撮影所は解放されたが、戻ってきた組合員が再び占拠。占拠は10月まで続いた。

まさに一触即発のにらみ合いが続いた後、10月、ついに組合は撮影所を退去。その首謀者が会社を去ると言うことで半年にわたって繰り広げられた「史上最大の労働争議」に決着が付いた。しかし、そんな状況のためこの年の東宝製作作品はたったの4本。この状況に業を煮やした山本嘉次郎、黒澤明、成瀬巳喜男、斉藤寅次郎らが今度は「映画芸術協会」を設立し東宝を去ることになった。特に黒澤の「酔いどれ天使」は過激派組合員の妨害をされつつ作ったという経緯もあり、その行動は至極当然の事だったといえるだろう。ともかく東宝はもはや映画製作をする会社ではなくなっていたのだ。

1949年頃の「東宝マーク」

組合が企画制作にまで強力に発言権を持っていたことを象徴するようにプロレタリア絵画の影響がモロに出ているデザイン。



機能停止の撮影所! 新東宝の躍進!

 さてそんな状況の中、東宝が存続したのは外部プロダクションが製作した作品を配給出来たからである。その中でも最大の製作本数を誇っていたのは、もちろん新東宝。独自の配給網を持たなかった新東宝であるが、東宝脱退の既存のスターもいるし、東宝育ちの一流のスタッフもいる、映画製作の梁山泊のようになっていた。つまり、現在のように東宝は配給だけを担当し、製作にリスクも含めて新東宝などの製作プロダクション背負うというシステムが出来ていたのだ。推測にはなるが、この経験がのちに日本映画業界ではいち早く製作部門を分離させるという方針を打ち出したのではないだろうか?「青い山脈」(監督・今井正 1949年)

最低限の予算と環境の中、左翼の今井正が監督したにもにもかかわらず「明るく楽しい」の戦後「東宝カラー」を代表する作品になったのは何とも皮肉な話だが、やはりプロデューサー藤本真澄の力が強かったんだろうな。 


 ともかく翌1949年(昭和24年)にもこの状況は続き、「第3次東宝争議」のスト前に製作に入っていた作品を除いては、すべてが外部プロダクションの作品だった。そんな中でも「青い山脈」(監督・今井正)は東宝と独立した藤本真澄プロデューサーの藤本プロの提携作品で予算もない中、最大級のヒットを飛ばすのみならず、まさに「東宝カラー」の作品として日本映画の歴史に残る作品となった。が、もはや東宝は限界まで来ていた。そんな中、救いの手をさしのべたのが新東宝である。


映画を作らない映画会社〜新東宝の裏切り

 新東宝による映画製作の一任である。3月、東宝は自社製作の完全停止を決定。撮影所は貸しスタジオとして営業し、東宝は新東宝製作の作品を配給する映画会社として生きてゆくことになった。東宝の映画製作の歴史はここで終わるかに見えた。しかしその年の11月には再びの急展開を迎えることになる。今度は新東宝が東宝配給部の社員を引き抜き自主配給を宣言したのだ。映画製作も順調でもはや東宝に頼る必要なしと判断した完全な新東宝の裏切りである。当然東宝はこの新東宝の契約破棄について提訴。結局、この泥沼の訴訟劇はの3月の協定が成立し、新東宝との絶縁まで続くことになる。が、ともかく東宝は自社製作の再開をするしか生き延びる手は無くなっていたのだ。

自社製作の再開! そして、人が戻ってくる…

 1950年(昭和25年)1月14日。東宝撮影所ではささやかな式典が行われていた。自社製作再開式である。撮影所は再び東宝作品を製作するために機能をし始めた。そんな中、3月には「また逢う日まで」(監督・今井正)が大ヒット、ガラス越しのキスシーンが話題となり、この年のキネ旬ベストワンに輝くなど多少の明るい話題は振りまいたものの、東宝がかつての勢いを取り戻すには至らなかった。が、この年から翌1951年(昭和26年頃)にかけて、少しづつではあるが復活の兆しを見せるようになる。東宝の安定と共に、黒澤明、成瀬巳喜男、藤本真澄など散り散りになっていたスタッフ、キャストも徐々に東宝も戻ってきた。一方、公職追放となっていた小林一三、森岩雄らも会社に復帰。経営陣も強化され始めた。

「佐々木小次郎」(監督・稲垣浩 1951年)

日本が独立を取り戻してようやく製作が出来るようになったチャンバラ時代劇。まさに東宝復活を賭けた渾身の1作だったという。


またチャンバラ時代劇の巨匠・稲垣浩も東宝に入社するのと時同じくして、1951年の9月にはサンフランシスコ講和条約が締結。日本も再び独立国としての道を歩き始めGHQは解体。時代劇の製作も可能になり「佐々木小次郎」で東宝復活への道筋を作ることとなった。人が集まるところに活気が生まれ、その活気がまた人を呼ぶ。この頃の東宝はまさにそういう状態だったようだ。


日本映画黄金時代の幕開け

 東宝創立20周年を迎えた1952年(昭和27年)には黒澤明が東宝復帰第1作「生きる」を公開。また、後に社長シリーズへと発展する「三等重役」(監督・春原政久)も発表。前年にヒットした「佐々木小次郎」の二部三部も公開されどちらもヒット。東宝の完全復活も、もう目前だった。

「三等重役」

後の「社長シリーズ」へとつながる記念碑的な作品。森繁久弥、小林圭樹などおなじみのメンバーが顔をそろえる。主演の河村黎吉は「社長シリーズ」で先代社長として写真で登場する事がある。

 その仕上げとして1953年(昭和28年)には1億8000万円かけて撮影所の機材を強化。アメリカ映画がすでにカラー時代に突入していたのを受け、東宝の撮影所もカラー対応できるスタジオへと改装。その1作目としてフジカラーを使用した東宝初のカラー作品「花の中の娘たち」(監督・山本嘉次郎)も公開されるに至った。
 一方、長い間GHQの政策により作ることが出来なかった特撮を使った大がかりな戦争描写も可能になり「太平洋の鷲」(監督・本多猪四郎)で東宝のお家芸といえる特撮も復活した。そう。東宝の長い「戦後混乱期」は終わりを告げようとしていたのだ。

東宝戦後混乱期とは何だったのか?

 振り返ってみると、この時代の東宝の歴史はまさに日本の縮図と言ってもいいだろう。戦争協力から一転、民主化、新時代への戸惑い、混乱、新たな人材の発掘、GHQの支配、労働争議の日々、謀略、裏切り、そして復活。まさに日本中で起きていたことがこの東宝の中ですべて起こっていたのだ。この10年足らずの期間は、日本人にとっても、東宝にとっても、手探りのまま夢中で歩いた長く苦しい年月だったに違いない。すべての価値観がダイナミックに変わる産みの苦しみを、ありとあらゆる形で東宝が、いやすべての日本人が味わってきたのだ。個人的には、東宝史の面白さはここにあると思う。

ともかく1950年代半ば、人々が豊になるにつれ娯楽を求め、まさに日本映画界は空前の黄金時代を迎えようとしていた…。
 

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