さて、今回は第3話目。「東宝マニア」としての集大成ともいうべき「私的東宝カラー復活」のお話をしてつもりなんだが、その前に1971年に東宝が製作部門を分離して以降の「東宝カラー」について少し触れておこう。

 自社製作をやめ、外部プロダクションを導入した結果消滅してしまった「東宝カラー」であるが、もちろん完全に消滅したわけではない。まだまだ映画業界には純粋な東宝育ちのスタッフが数多く残っていたからだ。そんな中でも脚本家の田波靖雄は草刈正雄による「若大将シリーズ」など製作・執筆したりなど「東宝カラー」を守り続けた人物だったと言えるだろう。80年代に入ってからも本家・加山による「帰ってきた若大将」を復活させたりなどの活動をしてきた田波だが、彼の書いた「プルメリアの伝説」さえも「東宝カラー」を色濃く残した作品であった。

 「プルメリアの伝説」とは当時アイドルの頂点にあった松田聖子と、売り出し中だった中井貴一に「貴=聖コンビ」を組ませ、山口百恵×三浦友和の再来を狙った作品である。封切り時、高校生だった私だが、アイドル=松田聖子にはまったく興味がなかったにも関わらず「脚本は田波靖雄かぁ〜」という、当時の高校生としては極めて珍しいモチベーション(笑)で劇場まで見に行ったのを記憶している。作品としては胸くそ悪くなるほどのブリブリのアイドルだった松田聖子と、「連合艦隊」に出演した直後でポロシャツにヨットよりは戦闘服に零戦の方が遙かに似合う中井貴一のコンビが成立するワケはなく、水と油のようなちっともかみ合わない印象ばかり残るものだった。が、そんな中でもたびたびはいるコントのようなギャグは紛れもなく田波靖雄のギャグで、「クレージー」や「若大将」の頃と変わらない「東宝カラー」の残光を感じ取ることはできた。が、結局この「貴=聖コンビ」がこの1作で終わってしまったのは、やはり私の感じたような「水と油」を感じた人が多かったからなのかもしれない。

 ほかにも、80年代に「東宝カラー」を残した作品といえば、10億円かけたプロモーションが話題となった「少女隊」の主演作「少女隊phoon・クララ白書」だろう。結局、鳴かず飛ばずでこの作品が唯一の主演作なってしまった作品だが、彼女たちが寄宿舎の中を歌い踊る大ミュージカルシーンは、エノケンから三人娘へと続く東宝ミュージカルそのものだった。もっとも作品全体としては80年代にありがちな「ぬるいアイドル映画」ではあったが…。

 しかし私は、そんな中途半端なものではなく「これぞ東宝カラー」という新作が観たかった。そこで考えたのが「私的東宝カラー復活計画」である。簡単な話が自主映画を作っていた私は「これぞ東宝カラー」という作品を自分で作ってしまえと考えたわけである。まったく乱暴な話であるが、若さと勢いというものは恐ろしいものなのだ。いや、今考えるとマジで。ともかく、1987年の早春のことである。

 で、製作するにあたり、私がイメージしたのは「特撮+ミュージカル」。東宝作品でいえば「大冒険」のような作品だった。ただ、自主制作では植木等のようなエンターテイナーは見つかるはずもなく、主役の設定はは3人の女の子でいくことにした。ちょうど「ハイハイ3人娘」の中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりの3人を「大冒険」の世界で大暴れするというイメージを想像してもらえばわかりやすいと思う。また、自主映画なんてやっている、むさ苦しい男が主演よりは、素人とはいえ女子大生の女の子3人組の方が遙かに観客の食いつきもいいに決まっているし。

 で、思い浮かんだタイトルは「日本一の3人娘!」。3人の女の子が主人公で「東宝カラー」といえばこのタイトル以外にはない。「日本一の〜」は言うまでもなく「日本一の男シリーズ」から来ているのだが、他にも「日本一の若大将」なんて作品もあるし、東宝作品を代表する「冠」と言えるだろう。


「日本一の3人娘!」メイン・タイトルと主演の3人。
センターの女の子はその後本当の女優となった宮本裕子。

 そしてとにかく、そのイメージをベースに無い知恵しぼって書き上げたシナリオは、仲良し3人娘がふとした事から週刊誌専属カメラマンの失踪事件に巻き込まれ、事件を追って行くうちに、その背後に世界征服を狙う悪の秘密結社の存在を突き止め対決するというまことに馬鹿馬鹿しい内容だった。しかもミュージカルシーンあり、特撮あり、怪獣まで出て来るというデタラメにもほどがあるが、あの時の私にはブレーキというものはついていなかった。もちろん大人になった今なら、とてもじゃないが他人を巻き込んで作ろうなんて思わないが、大学生の私はこの作品の製作に青春と情熱のすべてをたたき込む覚悟は出来ていたのだ。


敵役はやっぱりナチス。住宅街を爆破する撮影も強行(笑)

 まぁ、そんなわけで製作費は50万円、製作期間は3ヶ月、フイルムはシングル8に決定し私は製作に入った。ちなみに製作費の50万円は2ヶ月間工事現場のバイトをやって稼いだもの。製作期間は上映会の日は決定していたのでその逆算である。ただフィルムに関しては私は妥協しなければならなかった。本来「東宝カラー」にこだわるのなら、やはりフィルムもイーストマン・カラーの発色鮮やかな「スーパー8」を使うのがスジだ。が私はフジカラーの落ち着いた発色の「シングル8」を選ばざるを得なかったのである。理由はひとつ、特撮シーンがあったから。シングルには当時世界最高峰と言われた8ミリカメラの名機「FUJICA-ZC1000」というカメラがあり、私が考えていた特撮シーンには、このカメラでしか撮ることが出来ないシーンが存在していたのだ。発色を取るか? 特撮を取るか? というつらい選択ではあったが、特撮は譲ることが出来なかったのだ。


ミニチュアなどを使った特撮シーン。右のモンスターと3人娘が対決!(笑)

 1987年4月。私のつらく楽しい日々が始まった。昼間は授業など出ずに撮影、夜は翌日の演出プラン練りながら編集、別働隊がミニチュアを製作するという毎日。完徹の日も少なくなかった。そんな私の心の支えになってくれたのは当時つき合っていた彼女などではなく(彼女とは3ヶ月の間電話ひとつしなかったのだ…涙)、なぜか「妖星ゴラス」のビデオだった(笑)。つらくなると「ゴラス」のビデオを見ては、南極基地建設の一大パノラマを作り上げたスタッフ達の苦労を思い、胸を熱くして燃えたのだ。以来この映画を見ると、あの「ゴラスな日々」が蘇ってくる。「ゴラス」も罪作りな作品でゴラス。 ……ごめん。調子に乗った。

 で、そんな中でももっとも思い出深いのは、東宝作品の定番・日比谷公園でのミュージカルシーンのロケをしたときのことだろう。日比谷公園のミュージカルといえば「日本一の色男」や「続・若い季節」などでも登場した東宝ファンではお馴染みのシーン。ま、当時の自主映画で「ミュージカルシーン」を撮ろうなんていう馬鹿はあまりいなかったので、スタッフからは「いらないんじゃないの?」という声もないわけではなかった。が、やはり「東宝カラー」にこだわる私としては、これだけははずせなかったのだ。とはいえ素人の学生風情が人の多いあんな公園で下手くそなミュージカルシーンの撮影などよくしたものである。

 一口に「ミュージカルシーン」といっても、金も機材もない素人にはとても困難な挑戦であった。なにせ同時録音の出来ない8ミリである。撮影はあらかじめ用意した伴奏の音楽を、現場でラジカセの最大音量で流し歌うという原始的なもの。後は撮影したフィルムを伴奏に合わせて編集し、歌をアフレコで画面に合わせて録音し直すという方法だ。もっとも、アナログな機材だったので後処理での画面と音のシンクロに死ぬほど苦労する事にはなるのだが、撮影しているときはそこまで気が回らなかった。


日比谷公園のミュージカルシーン。なんというか…(笑)

 で、ともかく素人があの日比谷公園の噴水の前でラジカセをかき鳴らしながらミュージカルシーンを撮影したのである。現場はたちまちギャラリーでいっぱい。そんな中、恥ずかしさも感じずに撮影を続けた私たちは本当に若かった(笑)。途中、そのころ日生劇場で来日公演していた「コーラスライン」だかなんかのの演出家という外国人(本物だったかどうかはわからない。笑)がもたまたま散歩をして通りかかり、可笑しそうに撮影シーンを見ていったのも思い出深い(笑)。若さとはホントに恐ろしいのだ。

 その後、ミニチュアや火薬を使った特撮シーンや、3人娘と怪獣の対決シーン(ったく、どんな映画だよ…苦笑)なんかの撮影も無事終わり、なんとか上映会当日の朝に完成。評判も上々で成功に終わった。結局、私はこの作品と引き替えに貴重な32単位失い、予備校時代から続いていた彼女とも別れることになるのだが、それも今となってはいい思い出である。完成した作品はその後も、色々な上映会でお呼びがかかったり、「シネック」という当時あった学生映画連盟のコンテストでは最終コンペまでいったりと、それなりの結果を残せたことで、私としては満足している。もちろん今見ると、もの凄く稚拙で「恥ずかしい作品」なので、作品自体は封印。よほど親しくないと人に見せることはないが(笑)。ともかく、遠い遠い昔の物語である…。

 さて、今回は東宝の話というよりは、完全に私の自主映画の思い出話になってしまったので、最後に東宝にまつわる大学生活の後日談を書くことにする。大学4年になった私は、32単位落としたせいもあって、毎日のように授業に出なければいけない日々を送っていた(笑)。が、大学4年といえばやはり就職活動である。私は当然のように「東宝株式会社」が第1志望であった。もちろん自社製作をしていないのは知っていたが、それでも私を熱くし続けた「東宝」の一員となり、やがては再び東宝映画の新たな黄金時代を築くのが私の野望だったのだ。

 しかし、その会社説明会の日。面接担当者はとんでもないことを口走ったことで私の野望は早くも終わってしまうのである。「えー、うちの会社は映画が好きだと言う人は必要としていません」うーん。かつての誇り高い映画会社の担当者にしてなんという暴言。つまり、映画は東宝にとってあくまで商品なんだから、それ以上の情熱や思い入れは不要ということなのだ。もちろん言いたいことは判るが、やはり仕事は理性と情熱のかけ算だと思う私にとっては、とうてい受け入れられる発言ではなかったのだ。今、考えると私も青すぎたのだが、少なくとも当時の私にとっては「私の好きだった東宝」の死亡を確認するという皮肉な結果として終わってしまったのだ。

 結局、制作にこだわった私はテレビ番組制作の道を進むことになるのだが、この選択は今でも間違っていなかったと思っている。もちろん映画でもテレビ番組でもつきつめて考えれば所詮は商品である。コストを抑え売れる商品を作れば「勝ち」の世界だ。しかし、人を真底楽しませ感動する「作品」を作り上げると言うことは、けっしてビジネスライクだけでは出来ない。「商品」を作るという視点からは無駄に見える努力やこだわりの積み重ねなくしては、やはり「いい作品」は作れないのである。

 ま、もっとも今でもこう考えている「青さ」が私のテレビディレクターの弱点でもあるんだが、こればっかりは一生変わらないだろうなと諦めている。とは言っても、私は今でも「東宝ファン」であるし、いつの日か「東宝カラー」が現代的にアップデートされ復活し、再び日本映画の黄金時代が訪れることを望んでやまない。それと正直言えば、6000円という正札がついている東宝のDVDが、もう少し安く(4800円くらい)、もう少し「クレージー」「若大将」「成瀬巳喜男」にまでバリエーションを広げてリリースしてくれることも望んでやまなかったりもするのだが(笑)。

ということで「極私的東宝論」の「バカチン青春3部作」(笑)はこれで完結編です。第4話からはもう少し別のアプローチで、私なりの東宝映画の魅力に迫っていきたいと思ってますんで乞う御期待。

(次回に続く)
              


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