自分史 2011年05月08日更新
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自分史

気が向いた時に追記・修正されます。
なお、自分の記憶を頼りに記述していますので、一部事実とは異なる部分がある可能性があることをあらかじめお断りしておきます。


プラモデル
子供の頃の私は、とにかくプラモデルばかり作っていました。
当時はビデオや自分用テレビなどは無く、アニメとかテレビ番組はほとんど見ることは出来ませんでした。
(考えてみればガンダムやダグラム、ボトムズなど当時の定番番組もいまだにちゃんと見たことがありません。)
なので、テレビでの活躍などとはまったく関係なく、アオシマのミニ合体やジョイントロボガム、ビックワンガムにはじまり、ザ・アニメージやメガロザマック、日東のダイアクロンやダグラムと、カッコイイと思えば何でもスーパーや駄菓子屋、文具店で安価なプラモデルを買っていました。
(デストロイドがマクロスに出てくるメカということもまったく知らずに買っていたくらいでした…)
当時、都会ではブームだったと言われるガンダムなんかより、コクピットが再現され透明部品やパイロット人形が入っているキットが非常に魅力的でした。
当時流行りのガンダムのプラモデルはコクピットが再現されてないどころか、コアファイターやガンタンク・Gアーマーなど高額キットの大きなキャノピーですら不透明で「水色に塗装せよ」と指示がしてあり、それはガッカリしたものです。
現在でも、ガンダム系のプラモデルがあまり好きになれないのは、この頃の印象が影響していると思われます。
(流行りモノに手を出したくないという思いもありますが…)
都会の模型店に行ったとき、皆並んでガンプラを買っていたのに、ひとりだけ日東のダイアクロンのプラモデルを買っていた田舎モノは私です。
この頃は自分の部屋が無かったので、公園や神社の境内などで作っていました。
水転写デカールも川の水で貼ったりしていました。
児童館のカーペットに接着剤をこぼして怒られたことも。なにせ三角形のビンで倒れると全部こぼれましたから。

模型店の入荷日(水曜日か木曜日だったと思う)は学校が終わるとみんな学校の近くの草むらに隠してあった自転車で猛ダッシュで校区外の模型店に急行、発売情報が全くない時代だったので入荷したダンボールから何が出てくるかワクワクして待っていました。

流用パーツなどで改造はしましたが、家族から「臭い」「汚れる」と文句を言われるので、塗装まではなかなか出来ませんでした。
当時、地元の模型店には塗料・プラバン・プラ棒・タミヤのチューブパテくらいしか素材がありませんでした。
よく雑誌に載っていた「ポリパテを盛って改造」という記事をみて、ポリパテ=タミヤのチューブパテのことであると思い込んで大量に盛ってしまい、表面しか硬化しないわパーツはぐにゃぐにゃに溶けてしまうわ大変な事態になっていました。
もちろん、瞬間接着剤やピンバイスなんて買えなかったので、カッターでほじって穴を開けたりしていました。
タカラの1/72ソルティックやバンダイの1/100トラッド11が特にお気に入りで何個も何個も改造して作っていました。
今でも1/100ウォーカーマシンシリーズはバンダイの頂点にして最高傑作でしょう。この先もこれを超えるキットは出せないと思います。
 


コクピットがある「ゾイド」にももちろん興味はありましたが、一番安いものでも680円〜と当時にしてはとても高価で手が届きませんでした。
その反動か後年に「コマンドゾイド」というミニキット付きチョコボール(\100)が出た時は夢中で買いまくったものです。

中学生になっても部活時間中に立入禁止になっていた屋上への階段の踊場に隠れてプラモデルを作ったり品評会をしていました。

立ち読みブーム
普通の子供の小遣いではせいぜい100〜500円のプラモデルを買うのがやっと、塗料も皆で持ち寄って筆塗りしていたくらいで、新製品の情報源はキットの箱の横のラインナップイラストや入っていた小さなチラシ、模型店においてあった「3Dジャーナル」「超時空情報」「ドルバックニュース」などの安価な情報誌を見て知る程度(運が良いと古いのをもらえた事も!)、近所に書店も少なく模型誌まで揃っている所はなかったし、少ない小遣いで雑誌やマンガを買うなんてとんでもないことでした。
夏休みとかになると朝から集団で自転車で片道1時間以上かけて冷房の効いた大きな書店まで立ち読みに行くのがちょっとしたブームになりました。
そんな時、空気の読めないとてもリッチな奴が「デュアルマガジン」という、なんとプラモデルキットより遥かに高価な雑誌を持ってきて我々は驚愕しました。


悲劇のダーナ・オシー事件

「ダンバイン」のキットが発売し始めた頃、学校で「昨日ダーナ・オシーのキットを買った!説明書にネオダンバイン(注:後のビルバインのこと)が載っていた!」と自慢げに言い出す者があらわれました。
当時、発売時期などの情報も無く、田舎の玩具店では新製品は1個か2個くらいしか入荷しない状況、しかも注目を浴びたいがために有りもしないキットを買った!と自慢げに嘘を言う奴もあとを絶たず、当然、彼も嘘つき呼ばわりされました。
翌日、彼は自分の証言を証明するためダーナ・オシーの組み立て説明書(当時はなぜか「設計図」と呼ばれていた。)を学校に持ってきたのですが、皆に見せる前に先生に見つかり没収されてしまいました。
かわいそうに彼の証言はダーナ・オシーのキットが店頭で目撃されるまで信じてもらえず、没収された説明書は戻ってくることはありませんでした。
その教訓から新製品キットを買ったらランナーに付いている商品名が刻印されているプレートを切り取って持参、証明するというローカルルールが生まれました。

エルガイムばらばら事件
エルガイム放送当時、ビデオデッキを持っている家は少なく、仲間内でも1人いただけでした。
ごくたまの家で生放送を見ることがあったのですが、そのビデオデッキを持っている奴の家の遊びに行くと録画したエルガイムなどを自慢げに見せてくれました。
しかし、結果として生放送で見れた回と順不同で見せてもらった録画した回をさらにバラバラの順で見ることになりストーリーなんてめちゃくちゃ、意味もなく「エルガイムは話が超難解だ!!」と信じられてきました。
同様の現象は「超時空世紀オーガス」などでも発生したものです。


当時のテレビアニメ事情(とカプセル自販機事情?)
プラモデルの項でも述べましたが、子供の頃はビデオや自分用テレビなんて無く、アニメなどテレビ番組を見るなんて習慣はありませんでした。
それでも、リッチで熱心なアニメファンはラジカセなるものを持っていて、テレビ番組の音だけをカセットに録音していたようです。
テレビを見る努力(?)をするようになったのは中学の頃、部活が終わると先輩たちと「雄星伝アンティボーグ(注:機甲界ガリアンのこと)がはじまっちゃう!」「オーガスがはじまっちゃう!」と言いながら走って帰宅したものです。
たいてい家に1台しかなかったテレビが空いてなくて見ることは出来ませんでしたが…
テレビ愛知が開局した時はまだ数少なかった受信できる家に数人集まっては「サイコアーマー・ゴーバリアン」「光速電神アルベガス」などを見ていました。
「光速電神アルベガス」といえばガチャガチャ(カプセル自販機)で赤いヤツだけ3つダブり、どう組み合わせても真っ赤かという苦い思い出が…あと、ゴットシグマの時は剣とウイングのセットが3つ出てロボットをひとつも持っていなかったという苦い思い出が…ゴールドライタンにいたっては不完全変形(分解して腕を取り外す必要があった)のバンダイ製より、コスモス製?の偽物のゴールドライタンAのほうが遥かに出来が良く、悪役面で黒いゴールドライタンBもあった…(以下、長くなりそうなので省略)

ついに我が家にビデオデッキが!!
バイファムやガリアンが最終回を迎えたころでしょうか?ついに我が家にも初のビデオデッキが登場しました。
我が家にはじめて来たビデオデッキ、ナショナル マックロードNV360はモノラルVHS、タイマー予約は一回に一つのみ、リモコンは有線で別売り、フロントローディング(デッキの上からではなく前面からビデオテープを入れる。)と3倍モード搭載が特徴とされていました。
この頃、120分ビデオテープは1本6,000円ほどしたので、デッキ購入時にサービスでもらった3本の120分テープを長い間繰り返し使用していました。

ビデオがあっても当時のタイマー予約は失敗が多く、全話見るなんて夢のお話でした。
テープも安くなりレンタルビデオが一般的になると、ビデオがある知人の家にビデオケーブルとビデオデッキを毛布に包んで自転車に積んで持って行ってダビングしたものです。

日本のプログレッシヴ・ロックとの出会い
テレビでやっていたような歌謡曲などには、まったく興味がありませんでしたが、ある日偶然、NHKの「ベストサウンド」というテレビ番組で難波弘之の美しく奥行きのあるキーボード演奏をみて「日本にもこんな凄い音楽があるんだ!!」と大きな衝撃を受けました。
やがて周囲の影響で洋楽をラジオで録音したり、レンタルレコードで借りて聴くようになりました。
当時のメロディアスな洋楽も良かったのですが、難波弘之の音楽のルーツが「プログレッシヴ・ロック」であることを知り、洋楽のプログレや国内でもキーボードをメインとした音楽を聴いてみますが、なかなか良いと思う音楽には出会えませんでした。

そしてCD時代に入り、キングレコードが日本のプログレッシヴ・ロック専門レーベル「クライム」を発足。
クライム第1弾「ヴィエナ/オーヴァーチュア=序章」のCDがなぜか、まるで神様が自分のために用意してくれたかのようにレンタルレコード店に置いてありました。

早速借りて聴いてみると、壮大でドラマチックなプログレとメロディアスでスピード感あふれるハードロックが融合したような凄い音楽でした。
一般の人でも、ちょっと高度なロックくらいの気持ちで普通に聴けると思います。
解説を読むと、「クライム」レーベルから続々ジャパニーズプログレのCDがリリースされることと、ヴィエナのメンバーは知る人と知る実力派プログレバンドから結集していることを知ります。
こうして、ヴィエナのメンバーのルーツである「ジェラルド」「アウターリミッツ」からはじまり「テルズシンフォニア」「ミスターシリウス」など限られた小遣いの中から迷いに迷って少しづつCDを買っていきました。
この頃利用したCDショップは名古屋駅近鉄の愛曲楽器、メルサのヤマギワソフト、ユーテクプラザ、トップカメラなどでした。(今ではこれらのCD売り場は1つも残ってませんが…)
しかし、クライムレーベルからリリースされるアルバムは全体のほんの一部で、例えば「アウターリミッツ」というアーティストの場合、2ndアルバムは出ても伝説の名盤といわれる1stアルバム「ミスティームーン」などは「メイド・イン・ジャパン」という一般のCDショップでは扱わないレーベルからリリースされていたため、入手することが大変困難でした。
クライムレーベル(キングレコード)も再発を繰り返してくれるので、大変有難いのですが…

そんなとき、大須の「円盤屋」という中古レコード屋で遂にあのアウターリミッツの1st「ミスティムーン」のLPレコードと出会います。
早速買って聴いてみると、それは正に「シンフォニック・ロック」というのにふさわしいすばらしいもので、その夜は一晩中、A面を朝まで繰り返し繰り返し聴いていたのを覚えています。

それから、今池の「ピーカンファッジ」という中古レコード屋でプログレ専門誌「マーキー」を発見、御器所の「ディスクヘヴン」、千種の「エイト」というプログレ専門店の広告を見つけ「「メイド・イン・ジャパン」レーベルのCDの一部もなんとか入手できるようになりました。
さらに、大阪まで年に数回、泊りがけでプログレ専門店「エジソン」などのCDショップを巡回しに行くようになりました。
「エジソン」はエレベーターを降りるとすぐ店内になっていたのですが、ある日いつものようにエレベータが止まると、いつも流れているはずのプログレミュージックが聞こえてきません。
おかしいな?と思っている間に扉が開くと、なんとカニ料理店(?)になっていて「いらっしゃいませ!一名様ですか?」と言われてしまい、涙目で逃げるように去りました。

ところで、日本のプログレの紹介記事を見ると「日本のキングクリムゾン」だとか「ELPスタイルの…」など、海外大物プログレと比較され、どれだけ彼らの音楽・テクニックに迫っているか、ということばかり評価されることが多い。
確かに日本のプログレはプログレマニアからみれば、メロディアスすぎてプログレになりきれていないコピーやニセモノ、一般の人からは海外大物プログレの印象から難しくて暗い音楽といった中途半端な認識をされてしまい、なかなか「日本のプログレ」として独自の部分を評価される機会は少ないと思います。しかし、そんなドラマチックなプログレとメロディアスな音楽が融合したところが正に「プログレッシヴ」だと思うし、海外での絶大な人気の理由だと思います。
最近は、アウターリミッツ、ページェント、ジェラルド、ミスターシリウスなど紙ジャケ仕様のリマスター盤が続々リリースされたり、アウターリミッツの20年ぶりに新作がリリースされたり、地味ながら盛り上がりを見せ、ディスクユニオンやアマゾンなどの通販で簡単に手に入れることが出来ます。
皆さんにも、最近のただ騒いでいるだけの薄っぺらい音楽とはまったく次元の違う、ドラマチックで美しく攻撃的なサウンドをぜひ聴いてみて欲しいです。

また、各アーティストやCDもまたの機会にでも紹介したいと思います。

オーディオとレンタルレコード
最初、音楽に興味が無かったので、初めてのラジカセを手にしたのは他人とはかなり遅くビデオデッキよりかなりあとのことでした。
休日は友人とレンタルレコード店で洋楽などレコードを借り2本パックのハイポジションテープを購入、知人の家でステレオを借りてレコードをカセットテープに録音していました。
よくインレタで曲名やアーティスト名、アルバム名などを一文字一文字転写してカセットインデックスを作ったものです。
酷使したラジカセはすぐに壊れ、苦労の末、念願のミニコンポを購入、家でCDやレコードをカセットに録音できるようになりとても感激しました(レンタルレコードにCDが登場したのもこの頃ですね。)
このミニコンポ、本体は一体型なのですが、あたかもセパレートコンポのようにデザインされ、各コンポーネントに相当する部分にメーカーのマークがいくつも付いていてよく友人に笑われました。

が、やがて一番酷使したカセットデッキ部分が故障しました。
いきなりステレオ一式買い換える金など無かったので、カセットデッキ、アンプ、CDプレーヤー、スピーカー、FM/AMチューナー、オーディオタイマー…と、「週間FM」などの雑誌を参考に2〜3万円の安い単品コンポを少しずつ大須で値切っては買い揃えていきました。
左右のスピーカー設置条件をそろえたり、配線を最短にするなど、「安いコンポでも性能を引き出す」ことにこだわりました。
この頃買ったカセットデッキ、スピーカー、オーディオタイマーなどは今でも現役なほどタフで高性能です。

ゲーム嫌い
ゲームなどにはまったく興味がありませんでした。
友人の家に行ってテレビゲーム大会になったり、ゲーセンに連れて行かれても全然面白くなくうんざりしていました。ゲーセンで金を使うくらいならプラモデルとか買ったほうが良いと思っていました。
そのうちゲームウォッチで数千円、ファミコンで1万+ソフト代、さらにゲームのためだけに数十万円のパソコンを買う奴まで現れて自分の理解の枠を大きく超えていました。
いまでも、ゲームなんかで時間と金を無駄に消費するのは非常にもったいない行為だと思っています。

ビデオカメラとプロジェクト・フォンマースタート
 「自分で考えたメカが出てくる映像作品を作りたい!」と思うようになり、ナショナルのNV-M3というVHSフルカセットビデオカメラを手にしました。
「プロジェクトフォンマー」はこの時にスタートしたと言っても良いでしょう。
このM3、VHSテープがそのまま使えたので撮影よりもレンタルビデオやエアチェクビデオのダビング編集に大活躍しました。
 
ノートの端に描いたメカの模型やセットを作って撮ったり、背景用の風景画を集めたり、どうやって背景やテロップを合成しようとか、どうやって模型を動かそうとか必死で考えていました。
「うんめいのたまごやき」などの短編も撮り、とあるテレビ番組に応募して見事参加賞を受賞しました。
もし、この頃、今のようにパソコンでCGや高度なビデオ編集が簡単にできる環境があったら、何かすごいものが生まれていたのかもしれませんね。
 


電車通学とパノラマカー
高校になると電車通学になりました。
しばらくすると満員の急行電車を避け、わざわざ早めに家を出て空いてる普通電車をよく利用していました。
ひとつ前の始発駅までの定期を買って(値段は同じだった)、反対方向の列車に乗り一旦その駅まで行って、そのまま折り返すと必ず好きな席に座れるというテクニックを使っていました。
私が生まれる前から当たり前のように走っていて、その斬新で宇宙船のようなスタイルで子供の頃から一目置く存在だったパノラマカーはこの頃から普通電車でよく使われていました。
パノラマカーは強力な冷暖房を備え、度々急行に追い抜かれるために途中の駅にドア開けっ放しで10分以上停車する普通列車でも快適でした。
その冷房能力は高校生が汗ビッショリで乗車してもクーラーの吹き出し口下に立つとあっという間に汗が引くほど、夏に駅に降りるとメガネがくもって前が見えなくなりました。
私は帰りは無人駅で降りていたのですが、2階の運転席からタラップで運転手が降りてきて走って検札をしていたのを思い出します。
もちろん帰宅時も急行より普通のパノラマカーを好んで利用していました。
パノラマカーの中でいろいろな音楽を聞き、いろいろな本を読み、大切な人と出会い、いろいろな会話して、いろんなアイデアがひらめいたものでした。
普通列車で片道1時間ちょっと、通学・通勤の毎日の往復時間は生活空間の一部と言ってもいいくらいでした。

名古屋ショック
私の通っていた高校はクラスにオカルトマニアが居たおかげで、授業中に雑誌「ムー」「ワンダーゾーン」「マヤ」などのオカルト雑誌を回し読みしていた変な学校でした。

田舎から名古屋に出てきた私にとって当時の名古屋は衝撃の連続でした。
書店には地元では取り寄せないと手に入らないような文庫本や見たこともない雑誌が平積みにされ、レコード店には難波弘之のLPやCDがすべて揃い、文具店には知識しか無かったり見たこともない道具や材料が並び、電器売場には憧れの最新機種がズラリと展示されて自由に触れることができました。
そして名古屋原住民の模型仲間によく連れていかれた「ユーテクプラザ」や藤が丘の「バンビ」はプラモデルが壁のように山積みにされていてまさに圧巻でした。
当時は学校が終わるとみんなでバスや地下鉄で栄まで行ってトップカメラやウォッチマン(当時はどちらも雑貨やCD、おもちゃもありました)バナナレコードやデパートのおもちゃ売り場をのぞき、ユーテクの無料送迎バスでユーテクへ、さらに無料送迎バス名駅まで行ってメルサのヤマギワや近鉄の愛曲楽器などをまわり名鉄百貨店の屋上遊園で休憩するのが定番コースでした。
あと、出来たばかりの東急ハンズや電子パーツやオーディオアクセサリーも充実していた大型電気店カトー無線もよく行ったものでした。
上前津はこの頃は完全な電気街で模型関係は意外にも第2アメ横2階の大須ホビーしかなく、目立った飲食店も吉野家くらいしかありませんでした。
第2アメ横エスカレーター下にあったビデオテープ屋やスガキヤ向かえにあったCD屋アビィロードもテープや新品音楽CDが安くて良く行きましたっけ。
ボークスもまだ覚王山にあり、キッズランドやナディアパーク(ロフト・書店・ヤマギワソフト)、トイコミやブレスが登場するのも、もっともっと先のおはなしでした。

たまに地元の友人を名古屋に連れて行くと、東急ハンズの紙袋や自動で動き出すエスカレータにいちいち感動していたものです。
そう、我々は田舎ものだったのです。

はじめてのポータブルカセットプレーヤー
電車通学するようになると、980円くらいで大須に売っていたポータブルカセットプレーヤーが手放せなくなりました。
早送りすら出来なかった「遊歩人」ではなく、下図にような再生・停止・早送りしかなく、巻き戻しはカセットを裏返して早送りする代物、音が悪くジーというノイズが常時発生していました。

ヘッドホンだけは普通のインナーイヤータイプの安いものに交換して使っていましたが、メーカー品でもコードがすぐ断線するのには悩まされましたね。
就職する少し前にはじめて「本物」のソニー製ウォークマンを手にしました。
グレーのプラスチックトレイに本体、充電池、充電器、リモコン付きヘッドホン、キャリングポーチ、乾電池ケースなどが収納されたパッケージ、金属製の梨地のつや消しブラックのボディ、静かでスムーズな動作音、高音質、その高級感に感動しました。
カセットウォークマンは毎日持ち歩いて酷使すると1年足らずで不調になりましたが、買い換える度、液晶付きリモコン、誤動作防止のホールドシャッター、クイックリバース、無音状態を検知して頭出し…など爆発的に進化していきました。CDプレーヤー側も録音レベルを合わせやすくするピークサーチやA面B面に効率良く曲を振り分ける機能など支援機能が充実していた時期でした。
時にはパナソニックやアイワのカセットプレーヤーも使ってみたのですが、高級感というかつくりの良さはソニー製が一番でした。

個人誌を即売会で売る
高校のとき、友人にそそのかされて個人誌(内容はフォンマー、トイパー、自動販売機ロボなどのオリジナルメカ系のコピー誌)を何度か作って即売会で売ったことがあります。
同級生から貰った(押し付けられた)大量のガンダムチョコボールおまけのプラモデルのダブリをひとつずつ付けたら、スペース代を全額払って誘ってくれた友人の本より遥かに売れてしまいました。
今では当たり前のおまけ付き書籍や同人誌を先取りしていたと言えますね?
(当時、落書きの寄せ集めを買ってくれた人、本当にごめんなさい…じゃなくて、ありがとうございました!)

可動人形製作
高校になると、なぜか模型仲間と可動人形を競作しました。
関節を付けたプラパイプを針金でつないで、パテや粘土を盛る構造でしたが結局完成せず、のちにこのフレームは「フォンマー」の撮影用モデルに転用されことになりました。

……おそらくはじめてドール的なモノを手にしたのは「スパイラルゾーン」でしょうね。

可動人形に布の服とプロテクターを装着したもので、3,000円と当時では大変高価な物でしたが「凄げぇーリアル!」と例によって元ネタも知らずに購入しました。
やがて、プロテクターが壊れると、(軟質樹脂のベルトがすぐ切れた)オリジナルのプロテクターを当時最先端の素材だったエポキシパテで作ったりしていました。
そして、何を思ったのかこの可動人形の手足を削り、胴体を幅詰めしてなんと女性型に改造しました。
ヘッドも新造して、布で服も作りました。
当時は今のように、流用できそうなボディや関節パーツはまったく無く、アオシマのスキャニーですら貴重な女性型可動ボディのキットでした。


金山の「
プレイメイト」
就職しても映像作品を作るという想いは消えず、コマ撮り出来るビデオカメラや編集用ビデオデッキ、漢字ビデオタイトラーや編集コントローラーなどを次々と買いまくりますが制作はぜんぜん進みませんでした。
今考えると、残業が多く時間も無かったので、機器を揃えて満足しようとしたり、気晴らしに買い物していただけだったような気がします。
ここで重要なのが、職場近くの金山橋にあった「プレイメイト」という小さな小さな電器屋。
専門誌に紹介されているようなマニアックなビデオ・オーディオ機器の実物が所狭しと展示され、一般店に比べ激安で販売されてました。
仕事が早く終わると、必ずここを覗き、実物を目の前にすると、欲しくてたまらなくなったものです。

ミニディスク導入
電車通勤でカセットウォークマンを多用していた私は、登場からまもなくミニディスクに飛びつきました。一般的な人のように録音再生機からの導入ではなく、コンパクトな再生専用機と据え置き型ミニディスクデッキをいきなり同時に購入しました。
導入当時はディスクの価格(当時は1枚1,400円)と何回修理に出しても直らない再生専用機の音飛びに悩まされましたが、2台目の再生専用機からは快調でした。
アルファベットと数字のみでしたが曲名・アーティスト名が入力できて再生時に表示でき、ディスクを10枚ほど持ち歩いてもカセットテープのように荷物にならない、そしてなんといっても「未来的」な雰囲気が魅力でした。
当時はオーディオ・音楽ファンから音楽データを圧縮して劣化させてしまうことに対する非難も多いものでした。

パソコンはじめました
まだインターネットもそんなに普及しておらず、ゲームに興味が無いということもあって、他人と比べだいぶ遅れてパソコンを手に入れました。
富士通とかいうメーカーのWindows95、ペンティアムU233MHz、3.2GBのHDDというスペックだったと思います。

最初は画像の合成に夢中になりました。いやらしい奴ではなく、模型や風景ですよ!
もともと画像加工が目的だったのでプリンターだけは同時に買いましたが、デジカメやスキャナーなんて無かったのでDV静止画キャプチャボードでビデオカメラから画像をとりこんでいました。
当時の雑誌のDTP入門では「パソコンとデジカメとプリンタに加え、デジカメ、MOのような大容量メディア、メモリー増設などが必須である。」と無駄に敷居をあげていましたね。

インターネットは電話線を使って「ピーヒョロヒョロ」という音をたてて接続してました。
電話代がかかるので接続前にメモ帳に見たいサイトのURLをズラーっと入力、接続するとそのURLをコピペして表示が完了するとすぐ次のサイトに進み、巡回し終わって接続を切ってから見ていたものでした。

当時はまだまだ高度だったビデオのノンリニア編集にも果敢に挑戦しました。
失敗を重ねた結果、アイオメガBUZというアナログキャプチャBOXとHDDを増設して取り込み・出力に成功。
「メディアスタジオ」というビデオ編集ソフトでタイトルやテロップの合成はもちろん、憧れのクロマキー合成やオーバーラップも簡単に実現してしまい驚きました。
アナログのビデオ機器で同じ事をしようとすると、70万円の機材と再生2台、録画機1台、最低3台のビデオ機器が必要でした。
のちにDV編集機能を標準装備したソニーVAIO R30というパソコンに買い替えましたが、不安定で重い操作感にガッカリ。
なお、この前世紀のパソコン、VAIO R30はCPU、OS、HDD、グラフィック、メモリ、ドライブなどを換装して今でも現役バリバリで活躍しています。
VAIOもソニー製ソフトを削除すると、驚くほど軽快になるのです。

※2008年8月にハイビジョンビデオ編集に対応するため、メインコンピュータを Core 2 Quad搭載自作パソコンに移行いたしました。

3DCGをはじめました
あるPC雑誌に美しいCG画像とともに「誰でも簡単にこんな美しい景観画像が作れますよ!」という記事を見て、画像合成の背景素材不足を感じていた私は「いいですね!」と思い「Bryce 3D」というPCソフトを買いました。
確かヤマギワソフト・ナディアパーク店でで3万円くらいしたと思います。

ところがこのソフト、分厚いマニュアルは当時PC初心者でCG未経験者だった私には分からない専門用語ばかり、ソフト自体もバグだらけでファイルの保存すら正常に出来ないことがあるという、とても「誰でも簡単に美しい景観画像が作れる!」ような代物ではありませんでした。
(注意:無数のバグは次バージョンの「Bryse4」でほぼ修正されました)
それでも、解説本を見ながら格闘の末、なんとかCGらしい壮大な景観CGを作れるようになりました。

そんな「Bryce」のアニメーション機能を偶然試してみて、「おっ、CGで自作映画が作れるのでは??」と思いつきました。
しかし「Bryce」にはオブジェクトをインポートする機能はありますが、モデリングしたり、関節を動かすことが出来ませんし、レンダリングが遅く、数秒の動画生成も10時間ほどかかりました。
そこで総合型のCGソフトが必要になるのですが、もちろん何十万円するような定番CGソフトなんてとても買えませんので、安価なCGソフトをいろいろ試しました。
CG雑誌でなぜか強力プッシュしていたが難解な「シェード」や国産の「3Dアトリエ」などはすぐ挫折。
結局、デモムービーだけで何となく使い方が分かり、直感的な操作が出来た「レイドリーム」にたどり着きました。

しかし、「レイドリーム」にはポリゴンモデラーが弱いという弱点がありました。
当時、ようやく導入したインターネットで「六角大王」や「六角大王SUPER」というソフトですごいモデリングする人達を見つけ、「少ないポリゴンでもこんなすごいモノが出来るんだ!」と驚き六角大王SUPERを導入しました。

この頃のバージョンの「六角大王SUPER」はモデリング機能しか無い潔いソフトで、少ないチュートリアルをこなすだけですぐ習得できました。
現行バージョンは機能が増えてチュートリアルも多くなってしまいましたが、モデリング関係のみやれば大丈夫です。
こうして
モデリング→六角大王SUPER
レンダリング→レイドリーム
背景、景観→Bryce
という構成が完成しました。

「レイドリーム」は次のバージョンアップで「カラーラ」という新しいソフトなりました。

「レイドリーム」を機能アップして「Bryce」風のインターフェイスを導入した感じでしたが、バージョン1ということもあり、やや使いにくい印象でした。
「次のバージョンアップで改良されるだろう」と思っていたら、開発元の会社がCGソフトの開発から撤退…
「カラーラ」は他社が引き継ぐことも無く開発が完全にストップしてしまったのです。

改良されることのない未完成とも言えるソフトを使い続けるより、今後のことを考えてソフトを乗り換えようと、再び手頃なCGソフト探しの旅をすることにしました。
「六角大王SUPER」で作ったモデルのインポートが出来ない「アニマス」やエラー続出の「ストラタ」などなど…
なかなかいいソフトに巡り逢えず、協力してくれるはずだった友人が交通事故で突然他界したこともあって、決してあきらめたわけではありませんでしたが、ヤル気が急速にダウンしました。

そして、数年の時が流れ、嬉しいことにカラーラの開発を引き継ぐ会社が現れ、英語版の新バージョンが発売されたとニュースが入りました。
しばらくすると、登場が心配されていた日本語版が発売され、私のCG熱が少し再燃します。
「カラーラ」はどんどん改良・機能アップして充分使えるソフトになり、今(CARRARA 5)ではBryse的な景観生成機能までもが内蔵されています。
サポートが悪いなどの指摘もあるようですが、日本語版が出続けるだけでもありがたいことですね。

今、考えれば、安価ソフト(といっても1〜3万円)をたくさん試した資金で高価な定番ソフトをドンと買っとけば良かったと思う時もありますが、良く考えれば、無理して買ってもバージョンアップやプラグインを入手する金が続かなかったと思いますね。

プラモデル病再発と食玩・カプセルフィギュアブーム
マスターグレードが発売された頃、プラモデル病が再発してMGザクやMG Zガンダムを発売日を狙って捜しに行くようになりました。
特にMG Zガンダムは発売から1ヶ月くらいは手に入らなく探し回っていたと思います。
もちろん仕事が終わってからなので20時に閉まってしまうような店には行けず、遅くまで営業していた藤が丘のバンビやブレーメンまでよく行ってました。
そんなとき、前の職場でひょんなことからプラモデル仲間ができます。
チョコエッグのおまけやカプセルフィギュアが凄い出来が良いという話から食玩・カプセルフィギュアブームになりました。
ちなみに私がはじめて買ったチョコエッグからはツチノコが出てきました。
上前津のトイコミやブレス、ステイル、まだ久屋大通にあったまんだらけなどに通い出したのもこの辺かな?
最初は定価以上でバラ買いするなんてとんでもない!と思っていましたが、いつの間にか利用するようになっていました。
マスターグレードもだんだん手抜き感が出てきて、食玩・カプセルフィギュアも溜まり邪魔になり、品質も落ちてきたことで大部分を処分してブームは終わりました。
しかし、人体模型シリーズとオカルト関係は今もお気に入りでまだ部屋に展示してあります。

いまでも古いプラモデルなどや復刻プラモデルも買ってしまいますが、作る時間がありませんね。


「矢場とん」の思い出
当時、「焼きとんかつ」、御器所の「とんき」など美味しいとんかつの世界を知ってしまい、ちょっとしたマイブームになっていた時期がありました。
そんな時、知人と一緒にまだ小さな店だった「矢場とん」に行くことに。
並ぶのは嫌だったので平日のランチタイムも過ぎた空いている時間を選びました。
味は「焼きとんかつ」や「とんき」みたいにインパクトがあるわけではなく、有名な割に普通な味噌カツだなという感じでした。
店内はそんなに混んでいる訳でもないのに食べていると店員が「邪魔!椅子を引っ込めて!」と椅子を蹴っ飛ばして来ました。
さらに私が食べ終わって、まだ食べている連れを待っていると「早く席を空けて!」と怒鳴ってきました。

もちろん今では店舗も大きくなり店員の教育も出来ているとは思いますが、今でも「矢場とん」は私の中で「感じ悪い飲食店」最上位の店として燦然と君臨しています。
大きなビルになりチェーン店をあちこちに増やして、イイ気になっている「矢場とん」の前を通るたび「良い店は消えているのになぜこんな店が残っているんだ!」と怒りの青い炎がメラメラと燃え上がるのです。

「M鉄問題」と「愛知万博」の大失敗
常滑市に空港が建設されることになり、常滑線を空港まで延長することになりました。
「空港開港まで間に合わない」という理由で利用者の反対を押し切って、仮線を設置せず常滑駅-榎戸駅間を閉鎖して工事が行われ、その間、代行バス運行となり多くの人の毎日の通勤・通学時間が大幅に増加してしまった「M鉄問題」が起こりました。
しかし、世の中は空港開港や愛知万博に向けて浮かれていて、この問題は報道すらされませんでした。
また、この頃「東海地方の景気は絶好調!!」と言われていましたが、街では店舗がどんどん店じまいして「ホントに景気が良いのだろうか?」と疑問を感じた時期でもありました。
景気が良いと信じていた名古屋人は金があってもブランド物しか買うモノがないらしく、ブランド物を扱う店ばかりどんどん増え名古屋の文化レベルは地に堕ちていきました。
今現在の名古屋の市街地では書店・CDショップ・ホビー・雑貨・映画館・スーパーすら激減してしまい、とても不便な街になってしまいました。
ちょっと欲しいものがあると、大阪、東京まで足を伸ばすか通販に頼らざるを得ない状況です。
深刻な環境破壊の実態を人々に知らせる絶好の機会だったはずなのに、結果的に環境破壊とお祭り騒ぎと商売だけに終わってしまった愛知万博「愛・地球博」も大失敗と言わざるをえないでしょう。


ドールに手を出す。
昔から可動人形の自作を試みるほどに興味があったこともあり、ボークスのカスタマイズフィギュア登場とともにドールアイをつけたり衣装を着せることからはじまり、豊富な27p衣装を使用できるようにオビツのボディに換装したり、MDDに手を出したり、ボディをDDに換装して、豊富な60p用衣装などを使えるようにしたり、気が付くと結構な量の衣装やボディが…
周囲の人達も60pドールを注文したり、DDでヘッドや衣装を制作しはじめる者が現れブームになりましたが、そのうち一人はテンバイヤーへと墜ちてしまいました。
  

CDウォークマン導入と突然の終焉
パソコンで作成したMP3-CDを再生できるディスクマン(今はCDウォークマンと呼ぶらしいが…)を知った時は「録音できないCDの欠点を完全に克服して今までカセットやMDの特権だったオリジナルディスクをつくる楽しみまで手に入れてしまった!!」と大変驚きました。
なにしろCD数十枚分の曲を自由な曲目で収録したCD-Rを再生でき、曲名・アーティスト名が日本語で表示できるのですから。
貴重な音楽CDを持ち歩き傷つけることもありません。
本体に液晶表示付き操作部があるD-NE920を愛用していましたが、ボロボロになってきたので買い換える気チョモランマ盛りだったのですが、D-NE920はすでに生産完了して市場に在庫は無く、後継機登場の気配も無く…


とりあえず携帯で音楽
それまで、携帯は電話できれば良いという考えのもと0円の機種を使い続けてきましたが、905SHを発売日に手に入れました。初代アクオス携帯といえば分かる人もいるでしょうか?
この携帯はワンセグ/アナログテレビチューナーとSDカードスロットを備え、テレビの予約録画ができました。
さらにそこそこの画質のカメラ、FMラジオ、電卓、LEDライトまで内蔵されおまけに(?)電話とメールも出来る、古い言い方をすればスパイツールのような携帯でした。
もちろんSDカードを使ったミュージックプレーヤーも搭載されていてそこそこの音質だったので、出かける時はそれを使うようになりました。
この時期はFMラジオ番組「松本人志の放送室」にハマっていて、よく録音してSDカードに入れて聴いていましたが、メモリー系はラジオ番組等長い音源を聴く時、途中でメディアを抜いたり、電源を切ると最初からの再生になってしまうため、とても不便でした。


メモリー式ウォークマン
その後、携帯電話のヘッドホン端子が故障、修理に出したものの修理不能と宣告され音楽が聴けなくなりました。
困ってとりあえずiPodでも買うしかないかな?と電器屋に見に行ったら、やっぱりかっこ悪すぎるぅ〜。
ふと、となりのウォークマン売り場をみてみると、以前の無意味な曲線や安っぽい光沢デザインに比べだいぶまともになっていたので購入してみました。
心配していたSONY製専用ソフトSonicStageも実用的で有償ソフトであったSD-Jukeboxに比べてもはるかに使いやすい感じで愛用中です。
手持ちの700枚以上の音楽CDが16GBのウォークマンにそこそこの音質ですべて.収まり、いつでも聴けるのは素晴らしいことですね。

最近のビデオカメラは…
通学通勤でお世話になったパノラマカー引退が迫っていると知り、ハイビジョンで記録しておこうと、数年ぶりにビデオカメラ買いに電器屋に出かけてびっくりしました。
なんと、ビデオ撮影の基本中の基本機能とも言えるフォーカスリングと電子ビューファインダがほとんどの機種で省略されていたのです!!
あれだけ操作性にこだわっていたソニーも、カメラメーカーであるはずのキヤノンですらも…
みんな大きな液晶画面を横にガッバーッと開いて、重心の不安定な状態で手持ち撮影しているのがアホらしいとは思わないのでしょうか?
やっぱり、ビデオはファインダー撮影が基本でしょ!と思うのは液晶搭載前からビデオカメラを使っている人だけなんでしょうか?
結局、ファインダー搭載のソニーHDR-SR12を購入しましたが、ハンディタイプラインナップで最上級機なのにフォーカスリングが無く、一つのダイヤルをフォーカスや明るさ(絞りとゲイン連動)をボタン長押しで切り替えて操作しないといけないのでマニュアル操作時にはホントイライラしてしまいます。
あと、8ミリビデオ時代から散々言われているレンズの広角側が狭いという問題は全く改善されていませんでした。デジカメでは広角側28oのレンズを搭載している機種も増えているというのに…
このままではHD動画機能を搭載し始め、画質、操作性に優れた一眼デジタルカメラが実力を付けてきて、ビデオカメラというジャンルの製品は無くなってしまうのではないでしょうか?



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