あとがき

★文明開化と共に、洋風文化を取り入れてきた日本の美術界も、揺り戻しでしょうか。
山下りんがロシアから戻ったころには、日本的なものが尊重される時代へと移っていきます。

時代の波に取り残されたのでしょうか?
それともイコン画家としてのけじめだったのでしょうか?
山下りんの残した作品としての絵画は、イコン画のほかには、数点の肖像画のみ……
美術史上からも、忘れ去られていたようです。

★明治、大正と、女性にとって自活していくのは困難な時代に、これほど自分の意思で強く生きた人も珍しいのでは…?多分生まれ持った才能が、彼女を突き動かしていたのでしょう。
 描くことを求めて、一生を過ごした女性、山下りんに興味を持たれた方は、笠間市の白凛居を訪れてみてはいかがでしょう。彼女に関する資料が収められております。

小田秀夫(1911年〜2003年)

略歴
◆水戸中学校から国学院大学高等師範部卒業
◆茨城県教職員 戦時中 満蒙開拓指導員養成所助教授
◆戦後 茨城県庁職員として 母子福祉、社会福祉に携わる。
◆県民文化センター次長兼県立美術博物館長を経て、県立高等学校長となる。
◆昭和47年定年退職
◆退職後 鯉渕学園、県立保育専門学院講師
◆郷土史研究、公民館活動の源氏物語講師、山下りん研究家。
 
山下りんは61歳の時、故郷の笠間へ戻りました。
その後、母親の実家の養子となっていた、弟(小田峯次郎)の敷地の一部を借り、居宅を作り、そこで一生を終えました。生涯独身であった彼女の遺品は、小田家に残されたのです。
小田秀夫は、峯次郎の孫、山下りんは、大伯母にあたります。

自宅にあった下絵のイコンが、各地の教会にあることを知り、あちらこちらと訪ね歩き、細かい字で書かれたりんの日記を読み解き(全文は読めず)、たくさんの方がたのお力添えもあり、昭和52年著書「山下りん」の出版にいたりました。
『没後40年経った現在、このように筆をとって、大伯母を語ろうとは、夢にも思っていなかった。もとはといえば、先にも論じたとおり、岡先生がりんを見出し、美術の専門誌に、紹介して下さったのに始まる。しかし一般に、その存在を世に知らせる労をとって下さったの方は柳田正夫氏であった。………』「山下りん」より

郷土史の研究をしたり、笠間焼きの本も書いたりしていたので、笠間への愛着は強かったようです。
「山下の遺品は、笠間に置きたい。」というのが、彼の生前の考えでした。

白凛居は、山下りんの行跡の資料館であり、その存在を紹介した小田秀夫の資料館です。

 何かちょっと落ち込んだ時、彼女の声が聞こえてくるような気がしませんか?
 「成せばなる、心配しないで思ったように行きなさい。」と。
彼女の生き方は、私達を応援してくれているように思うのは、私だけでしょうか?

白凛居管理者 柳澤幸子