≪山下りん≫ 安政4年(1857)〜昭和14年(1939)聖像画家

生い立ち 
山下りん26歳頃
 安政4年(1857)笠間市生まれ。7歳の時に父が亡くなり、生活はとても苦しいものでした。が、勉学に励む、絵の大好きな女の子でした。
 15歳になったころ、(絵をもっと勉強したいのに、ここには良い先生がいない。)と家出を決行。結局このときは、家に連れ戻されましたが、翌年、母や兄などを説得して、再び上京、浮世絵師や日本画家のところに弟子として住み込み、伝統的な日本画を学び始めました。けれど弟子とは名ばかりで、実際は掃除や炊事洗濯といった家の仕事を手伝わされる毎日でした。
         
工部美術学校 
 入学願書
そんな時、明治政府が美術学校を創ることになりました。明治10年 (1878) りんは試験に合格します。そして、一生懸命洋画の勉強しました。
入信
 その工部美術学校のころ、同級生の友人の影響を受け、ロシア(ハリストス)正教に入信します。その教会にはロシアからやってきたニコライ神父がいました。彼はロシア正教を広めるため、大聖堂はじめ、日本各地に教会を建てようとしていました。教会の聖堂にはキリストや聖人の聖像画が必要です。ニコライ神父は日本人の中から誰かをロシアに送り、きちんとした決まりに基づいたイコン(聖像)画を学ばせ、日本で聖像画を描ける人材を養成しようと考えていました。そして選ばれたのがりんだったのです。若い女性が一人で言葉も良くわからない外国へ行くことなど、とても考えられない時代。りんは迷いましたが、(ロシアでなら西洋の絵画を学ぶことができる。)絵を学びたいという一心で、留学することにしました。
         
ロシア留学
 明治13年12月12日、横浜港から出航したりんは、サンクトペテルブルグに着くと、女子修道院に入り、来る日も来る日も伝統的なイコンの勉強に明け暮れました。そのうちに、エルミタージュ美術館へも行くようになりました。イコンと違い、遠近法のある、表情豊かなイタリア絵画は魅力的で、りんはイタリア絵画の模写に熱中しました。その結果、イコンの学習を疎かにしたと、修道院からはエルミタージュへ行くことを禁じられてしまいました。そして、慣れない気候と、周囲との軋轢から、体調を崩してしまいました。
5年の留学を2年に切り上げて、帰国。
  サンクトペテルブルグ(地の上の教会)  サンクトペテルブルグ サンクトペテルブルグ
        
帰国後
東京復活大聖堂(ニコライ堂) 
 明治16年(1883) 帰国したりんは 教会から、東京神田のハリストス正教会(現在のニコライ堂)の敷地内にアトリエを与えられ、数年後には本格的にイコンを描き始めました。
その後20数年も描き続けましたが、イコンは原則として、作者が署名をすることは許されず、制作年月日も書かれていないものも多く、誰の作品か分かっていませんでした。しかし、現在は研究が進み、山下りんの作品と特定されたイコンは数百点にのぼっています。
        
イコン画家として
 北海道函館はじめ、各地のハリストス正教会に残されているりんの作品は、手本となったロシアのイコンとは異なり、温かみがあり、どこか日本的な目鼻立ちに描かれています。
厳粛な宗教絵画を描く約束事の中で、りんは精一杯自分の個性を表現しようとし、自己の芸術を確立していったといえるでしょう。

もうちょっと詳しく→ 生い立ち   美術学校時代   ロシア留学   帰国後